隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

朝井まかて氏の眩を読んだ。NHK葛飾北斎の娘応為をモデルにしたドラマを放送していて、面白かったので原作を読んでみた。

NHKのドラマは75分ほどの時間なので、原作のほんの一部分を取り出して再構成をしたような印象だ。原作はお栄の結婚生活が破たんするところから描かれている。物語はお栄を北斎、渓斎英泉こと善次郎、甥の時太郎と絡めることで描かれていて、お栄の作とされる絵を生み出した経緯が触れられている。北斎は父であり、絵の師匠で、お栄は弟子の一人として師匠を助ける。しかし、家事は一切しない。北斎が嫌がるので部屋の掃除もしない。食べ物も煮売り屋に頼っているありさまだ。善次郎は同じ絵師で修業も共にしたが、いつも間にか男と女の関係になっている。善次郎は正に風来坊といった感じで、ぶらっとあらわれて、お栄の人生にどっぷりと交わるかと思うと、何年も会わないような状況になったり。絵師をやめて、戯作者になったかと思うと、女郎屋を始めてみたり。時太郎は姉の子ということになっており、姉は病で死んでしまい、時太郎が残された。この時太郎がクズ男だ。本当の悪にも慣れないのだが、悪いことを企んではあっちこっちに借金をこさえて、その支払いを北斎に付け回す。それが、北斎が貧乏だった原因の一つだとしている。北斎が死んだ後にはお栄にたかろうともする。

多分お栄自身のことでわかっていることはあまり多くないので、書かれていることの多くは創作だと思われるが、そんなことを気にせずに楽しめる小説だった。

本の表紙にもなっているが、作者は以下の絵を見たのがきっかけで、本書を執筆したようだ。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7e/Yoshiwara_K%C5%8Dshisakinozu.jpg

ファイル:Yoshiwara Kōshisakinozu.jpg - Wikipedia

江戸末期とはいえ、この光の用い方は非常に独特で、印象的な作品だ。

0120979598からの電話

昨日から0120979598の番号からしつこく電話がかかってきている。

最初にかかってきたのは10月10日の10時38分ごろ。この時間帯は散歩に出ていたので、家にいなかった。
次にかかってきたのは、同じく10日の18時32分ごろ。この時は家にいたが、フリーダイヤルの番号からだったので、何かの勧誘だと思い出なかった。このとき電話番号を調べたら、朝日新聞世論調査と出たので、衆議院選挙の告示日なので、電話をかけてきたのだと思った。特に答えることもないし、その必要性も感じなかった。

そして、本日の11日も何度もかかってきている。8時51分、14時19分、19時30分、20時44分。もううるさいので、この電話番号は着信拒否に設定した。なんでこんなにしつこく電話をかけてくるのだろう?

一次史料にみる関ヶ原の戦い(改訂版)

高橋陽介氏の一次史料にみる関ヶ原の戦い(改訂版)を読んだ。本書は2015年に自費出版した「一次資料にみる関ヶ原の戦い」を増補・改定した本である。

著者は一次資料を読む際の心がけとして、

関ヶ原の戦いが徳川と豊臣の戦いであるという先入観、あるいは関ヶ原の戦いが徳川と石田三成の戦いであるという先入観を排除して読むべきです。さらに、合戦より前の一次資料を読むのであれば、東西両軍が慶長五年九月十五日に関ヶ原で戦って東軍が勝利したという事実さえも、頭の片隅から排除して読むべきであると考えます。

と書いている。我々は既に結果を知っているので、どうしても先入観にとらわれがちになるが、当時の人たちは、関ヶ原で東西両軍が戦うなどとは想定していないし、まして数時間の戦いで勝敗が決するなどとは思っていなかったはずなので、このことは当たり前のことであるが、非常に重要だ。また、我々は、小説・ドラマ・映画などからの知識が頭に残っていて、巷間語られているることがさも実際にあったかのように誤解している部分が多々あるが、当然そのようなことも頭からきれいさっぱり取り除かなければならない。

まず、有名な家康が小早川に鉄砲を撃ちかけ、寝返りを促したといわれている「問鉄砲」は戦いから八十年以上たってから作られた話だという。私も確か何かのテレビ番組でこの件を指摘しているのも見た記憶がある。そして、著者は小早川の裏切りは関ヶ原の戦いのときには既に西軍側も認識していたと指摘している。

また、井伊直政松平忠吉とともに合戦の一番槍を付けたというのも、後世の創作だと指摘する。東軍は早朝に赤坂・垂井を出発し、関ヶ原の戦いが始まったのは午前十時ごろ。井伊直政は南宮山の抑えについていたらしい。また、家康は合戦を始めたのが徳川譜代かどうかには、全く拘っていなかったという。

徳川家康が、最初南宮山西側の桃配山に本陣を置いたというのも後世の創作です。福島正則らが早朝垂井を出発し、午前十時ごろの山中で戦闘が開始され、正午ごろには勝敗が決まっています。徳川家康が早朝赤坂を出発したと仮定しても、山中へ着くころには戦闘は終了しています。桃配山も本陣を置く理由はありません。また、桃配山に陣地の遺構はありません。

この辺りから、「問鉄砲」はなかったという結論が導き出されているようだ。では何があったのかとして、次のようにまとめている。

西軍の宇喜多・島津・小西・石田勢は九月十四日夜八時ごろ、雨の降るなか、小早川の籠る松尾山を攻めに向かった。松尾山を包囲し、陣所は山中村周辺、陣立ては第一陣宇喜多、第二陣島津、その後東に石田。九月十五日早朝六時ごろから戦闘開始。しかし、午後十時ごろ予期せぬことに、そこへ東軍の「猛勢」が攻め込んできた。そこで石田は先陣に立って戦う。約二時間の戦闘で、まず大柿から移動してきたばかりの大谷吉継が戦死、ついで宇喜多勢、石田勢壊滅。正午ごろ、西軍の敗北が確定した。島津は伊勢街道を南に向かって撤退した。

著者はさらに、

  • 九月十四日の時点で徳川と毛利の輪談は成立している。
  • 吉川弘家は「決戦が始まったら手出しをしない」という約束はしていない。
  • 吉川弘家は東軍ではなく、西軍を敵と呼んでいる。
  • 九月十四日の時点で樽井は東軍の陣地だった。
  • 最初大谷がいたのは山中ではなく大柿である。
  • 大柿から撤退したのは宇喜多・島津・小西ではなく、大谷である。
  • 西軍が山中に向かった理由は「東軍を迎え撃つため」でも「大谷を助けるため」でもなく、「小早川を撃つため」。
  • 東軍諸将が小早川裏切らせるように手引きしたのではなく、小早川が東軍諸将を山中に引き出した。
  • 山中での戦闘は既に朝から始まっていて、西軍が攻撃した先は松尾山の小早川陣。
  • 小早川秀秋はもともと松尾山にいたのではなし、石田三成の指図で松尾山に布陣したのではない。西軍がすでに逆意の判明している小早川を含めて鶴翼の陣を布くとは考えられない。
  • 小早川は開戦と同時に西軍を裏切ったのではなく、開戦前から東軍だった。

と説明を加えている。

本書にはさらに、いくつかの後世の創作が指摘されている。

  • 関ヶ原の戦いにおける東西両軍の布陣についてドイツ軍人のメッケルが西軍の勝利であると即断したという話があるが、これはどうやら司馬遼太郎の創作のようで、これを売らずケル確実な証拠がないようだ。
  • 家康が西軍の陣地にスパイを送り込み、「家康が一気に佐和山を突こうとしている」という噂を流して西軍を関ヶ原に誘い込んだという話も、信頼できる資料によって証明できないので、後世の創作だろう。


それと興味深かったのは、関ヶ原の戦い徳川家康石田三成による主導権の争いであると言われているが、二人の対立を示す一次資料はないようだ。さらに、当時の公家連中の認識では、家康と三成が争っているとは思っていなかったということだ。

この著者の説がどれぐらい受け入れられているのかは不明であるが、表情に興味深いものであった。