隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

鬼はもとより

青山文平氏の鬼はもとよりを読んだ。

主人公は浪人の奥脇抄一郎。表向きは万年青の商いをしているが、裏では諸藩に向けて藩札板行指南をしている。物語の前半は奥脇抄一郎が浪人する前のことが語られる。当時はある藩で馬廻り役をしており、剣に入れ込んでいて、取立免状まで手にしたこともあり、自分はムサシだとうそぶいていた。一方で女遊びにもうつつを抜かしているような、どこにでもいるような取るに足らない武家だった。その抄一郎が佐島兵右衛門の藩札掛に回された。抄一郎は佐島兵右衛門が藩札版行に命を賭す腹が据わっているのを感じ取った。それは番方であるが無為な時間を過ごしている馬廻りよりも武張っていると思った。兵右衛門は「御家老をはじめとする御重役方こそが、最も用心せねばならない相手である」と言い放つ。ともすれば、藩札の増刷を要求してくるからだ。「腹を切ってでも止めてもらうし、脱藩してでも藩札の版木を守ってもらう」ともいう。「それができないものは辞めてもらう」とも。

藩札、通称、佐島札が滞りなく出回って、城下に活気が出てきたころに、佐島右衛門は風病であっさりと亡くなった。次の藩札掛頭になったのは抄一郎。やがて宝暦の飢饉が始まり、筆頭家老からは藩札十割の刷り増しの要求がやって来た。

抄一郎の藩はこのことがきっかけで崩壊に向かっていくのだが、佐島右衛門の教えの通り、抄一郎は藩札の版木を持ち出して脱藩して、江戸に出た。

本書の中で「幕府の発行する通貨は幕府のためにあるのであって、諸藩に配るためではない」というようなことが書かれていて、今更ながらこの当たり前のことを理解していなかったことに気付いた。そのせいで、諸藩は常に通貨の流通に苦慮するわけで、通貨不足によりデフレの原因にもなる。それを解決する手段が藩札というわけだ。本書の後半では、抄一郎は導き出した飢饉にも強い藩札の板行について触れられる。本書のタイトルにもなっている「鬼」はそこに出てくる。藩札の発行は単なる打ち出の小槌ではなく、藩政改革が必須なのだ。そして藩政改革を断行するためには、陣頭指揮に立つものは鬼にならなければならない。本書の後半はその鬼の物語になっている。

かけおちる

青山文平氏のかけおちるを読んだ。

本書は四つの駆け落ちの物語である。と言っても連作短編ではなく、長編小説だ。主人公は柳原藩執政阿部重秀だ。政阿部重秀は家業として鮭の種川に取り組んでおり、ようやくその結果が出たところであった。鮭の種川とは鮭が産卵しやすいように川を整備して、稚魚を増やすことである。結果的に多数の稚魚が成魚として戻ってきて、多くの鮭がとれることになる。種川の考えはもともとは江戸藩邸にいる娘婿の長英から興産の案としてもたらされたもので、藩の興産事業として進めようと考えていたが、認められなかった。そのため種川を家業として進めたのだが、実際にそれを業として成り立たせたのは名主の中山藤兵衛と阿部家の若党の森田圭吾であった。種川を始めて三年が経ち、川を遡上する鮭の量を見て、家老の岩淵周蔵は長英を国許に戻すころあいだという。阿部重秀はこれは自分が致仕するのにちょうどいい機会だと考えた。理由の一つは一つの家から親子が藩の重職を占めることへのためらい。もう一つは、重秀が人の目から遠ざかっていたい気持ち。人の眼から遠ざかっていたいので、致仕しようと考え出したのはずうと前のことであった。

本を読み進めていくと、重秀の人の目から遠ざかっていたいという気持ちは、妻の駆け落ちに関係していることがわかってくる。重秀が妻の民江を娶ったのは二十七年前、郡奉行の御蔵方に上がった年で、重秀は三十二歳だった。一方民江は二十七歳で、行き遅れたのは、縁者の者と不義を犯したことがあるかららしいという噂があったからだ。その民江が五年後、四歳になる一人娘を残して、漢詩の世話役と駆け落ちしたのだ。重秀は妻仇討の願いをだし、一月後に二人を討ち果たしたと届けを出した。これが一つ目の駆け落ちだ。

二つ目の駆け落ちは、重秀の一人娘理津が十六の時に俳諧の点者と駆け落ちした。重秀は三日後に脇街道の旅籠にいる理津を見つけ、連れ戻した。娘婿の長英はそのことを知りつつも、婿になると言ったのだ。一宮の例大祭で奉納の舞を舞う三人の巫女役の一人だった理津を見初めたからだという。

この後ストリーは江戸にいる長英が興産の種を見つけようと必死になっている姿が描かれ、なぜ、妻の民江が駆け落ちしたのかの理由が明らかにされる。そして、後残りの二つの駆け落ちが描かれていく。

本書で書かれている村上藩の鮭の種川は実際のことで、1762年(宝暦12年)から実施されたようだ。

不道徳な見えざる手

ジョージ・A. アカロフ, ロバート・J. シラーの不道徳な見えざる手(原題 Phishing for phools)を読んだ。本書のまえがきの中に以下のようなことが書かれている。

でも競争力のせいで、ビジネスマンはどうしてもごまかしと詐欺をするようになり、おかげで私たちはいりもしない製品を買い、高すぎる金額を支払ってしまう。そして、ほとんど目的意識を与えてくれない仕事をやらされることになる。あげくに、どうして人生がこんなにおかしくなってしまったのかと不思議に思うことになる。

私事になるが隠居する前の私の心境がまさにこの「目的意識を与えてくれない仕事をやらされること」だった。そして、単に目的意識がないだけでなく、非常にストレスのかかる仕事で、先の見えない状況に嫌気を指してしまい、隠居したのだ。そんなこともあり本書に興味を持って読んでみたのだが、残念ながら、あっと驚くようなことは書かれていなかった。どのようにしてビジネスにおいて詐欺あるいは詐欺的な収奪が行われてきたかを具体例を挙げて記載しているのだが、当たり前ではあるが、本書はアメリカのことについて書かれているので、法律等が違う日本にはそのまま当てはまらない部分も多数ある。ただし、リーマンショックのことについても書かれているので(この時にも詐欺的な収奪が行われていた)、当時を改めて振り返るのにはいいのかもしれない。

それと日本語訳がいかにも英語を翻訳したしたというような感じの文章になっており、読みにくいところも多々あった。

また、本書の中で「肩の上のサル」という言葉が多数出てくるが、これは多分"monkey on one's shoulder"にちなんだ表現だと思われる。この表現は「取り除くのが困難な厄介な問題」という意味だ。それと、随所に「カモ釣り」という言葉も出てくる。これは多分"phishing"の訳語なのだと思うが、鴨は撃つものであって、釣るものではないので、かなり違和感を感じた。