隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

経済で読み解く織田信長

上念司氏の『経済で読み解く織田信長 「貨幣量」の変化から宗教と戦争の関係を考察する』を読んだ。この本は非常に興味深い本だった。

本書は約290ページほどあるのだが、織田信長が登場するのは224ページ目からなのだ。では、それまで何を語っているかというと、室町時代-戦国時代の日本の状況を他の文献を参照しながら紹介しているのだが、この部分が実は非常に面白く、今までなんと知っていたことの意味を提示されて、なるほどと思ってしまった。

通貨を発行せず、通貨を輸入に頼っていた

平安~室町時代には日本では通貨を発呼していなかったというのは、大昔歴史の時間に勉強した記憶がある。そして、通貨を発行しないということの代替手段として、宋銭・明銭などの輸入通貨に頼っていたと。これが何を意味するかというと、政府が通貨流通量のコントロールをしていないとこを意味しているのだ。そのため、当時は慢性的に通貨が不足しており、経済の基調としては、常にデフレ傾向にあったのだった。そして、もう一つのポイントが「通貨を輸入していた」という点で、中国との関係がなかったり、中国の経済状況により朝貢貿易が止まると、通貨の輸入ができなくなり、これもデフレ傾向に拍車をかけることとなった。基本的な経済基調はデフレだが、足利義満の頃のように貿易が盛んになって銅銭の流入量が増えると、デフレ基調が大幅に緩んで景気が良くなった。

以前はなんとなく、中国から舶来品が入ってきて商品取引が活発になり、経済に好影響を与えたのだろうと思っていたのだが、実は重要なポイントは品物と同時に通貨も日本に入ってきて、通貨供給量が増えたので、一時的にインフレ基調になったのだと思われる。

もう一点重要な点は、米の購買力を基準に、日本と中国の通貨を比べると、同じ一貫であっても、6.74倍の差があったようだ。つまり、中国から銭を日本に輸入するだけで、価値が6.74倍に跳ね上がるのだ。

国際金融のトリレンマ

トリレンマという言葉を初めて目にしたが、ジレンマが2つの物事に関しているのに比べ、トリレンマは三つの物事に関して述べるときに用いるようで、国際金融のトリレンマとは、以下の3つのうち2つが成立すると、残りの一つを満たすことができないということのようだ。

  1. 固定相場制
  2. 金融政策の自由
  3. 資本取引の自由

これを室町時代に当てはめると、(1)と(3)が成り立つので、(2)を満たすことができない、つまり、金融政策に関しては何も実施できないということだ。現在においては(1)を棄てて、変動相場制度になっているので、金融政策は自由であるはずだが、今の日本の状況を見ると、金融政策は自由なはずなのに、打つ手がないように見えてしまう。

寺社パワー

実はこの辺りが最近もやもやして、もうちょっと知りたいと思っていることで、それは応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 - 隠居日録を読んで、少しはわかったような気がするのだが(寺社が荘園を管理することで富を蓄積し、また様々な理由から武装していたということ)、まだすべてがよく判っているわけではなかった。しかし、この本を読んで、なぜに当時の寺社勢力はそんなに力があったかについて、新たな知見を得ることができた。実はこの部分が読んでいて、一番面白かった。

天台宗 - 比叡山の主な収入源

後年信長により焼き討ちにされてしまった比叡山であるが、その収入源は以下の三つであった。

  1. 荘園
  2. 関所
  3. 金融

比叡山のある琵琶湖は北陸から機内に物資を運ぶためのシーレーンで、比叡山は湖上関を設け、莫大な通行料をせしめていた。その関所の数は11か所もあり、また、伽藍ごとにも関所があったようだ。それと金融とは金貸しのことで、金利は月8パーセントという高金利で、1年で金利が元本と同じ額になってしまうぐらいだ。荘園は近江地方を中心にあったらしく、鎌倉末期にはおよそ6万石はあったということだ。

臨済宗 - 京都五山

室町時代になると臨済宗は京都にも五山禅院を開き、室町幕府との関係を強化していった。当然これらの禅院も荘園を持ち、禅院の僧侶も私的に財産を有しており、また、荘園の代官となっている禅僧もいた。そして、臨済宗は博多の聖福寺を通じて中国貿易を抑えていたというのだ。この五山パワーをうまく利用したのが義満で、1401年に日明貿易を復活させて、五山にたんまり儲けさせ、その見返りに自分の政治権力を支えるように仕向けた。

義教 vs 比叡山

あの有名なくじ引き将軍の義教であるが、還俗する前いたのは天台宗青蓮院で、そういう意味では比叡山派であった。が、不思議なことに、1428年に義教が将軍に就くと五箇条の強訴で義教を困らせた。政治基盤が弱い義教はそれを受け入れるしかなかったが、その後比叡山に不利な判決を出すなどして、比叡山を締め付けて行った。1433年についに耐えられなくなった比叡山は十二箇条の強訴が出された。しかし当時の義教の政権は安定していたので、強訴の一部を見貯めたものの、守護大名の山名・土岐・斯波に比叡山を包囲させた。比叡山はこの強硬策に対抗できず、強訴の首謀者を隠居させ、幕府に降伏した。

しかし、関東公方足利持氏比叡山が内通しているという噂に義教が激怒し、1434年に近江一円の延暦寺の所領を没収し、陸上・湖上の交通を封鎖して通行税の徴収をできなくさせた。それでも、比叡山の過激派は抵抗を辞めず、幕府と比叡山の全面戦争に発展する直前で和平機運が発生した。

弁澄・円明・兼覚の三人の僧侶を身の安全を保障して召喚したにもかかわらず、拘束して斬首したために、激怒した比叡山は義教出家時のゆかりの寺である総持寺を焼き、坐禅院の僧侶20名が根本中堂に放火して、切腹するという事件が起きた。義教はこのことを口外することを禁止し、破ったものには厳罰で臨んだ。そのために数百名が命を落としたという。

一向宗 - 本願寺

1468年比叡山の攻撃により、堅田での活動の拠点を失った蓮如は北陸の吉崎に旅立った。そこでの成功モデルを各地に広げたのだ。

本願寺比叡山や五山と違い荘園を持たず、信徒からの喜捨で資金を集めていた。そのため、彼らとしては信徒を豊かにして寺への喜捨を増やすという戦略が必要だった。つまり寺を中心とした門前町を形成し、経済的・宗教的に結びついた町「寺内町」を作って拡大していったのだ。この寺内町はやがて都市特権(守護不入 地子免許 諸役免許)を獲得していった。そのために、時の権力者管領細川政元と強い関係を築いて行った。政元は特権の見返りとして、本願寺に戦力を要求することもあったらしい。この戦力が実は一向一揆と繋がっているのだ。

日蓮宗の軍事力

日蓮宗は創設以来内紛の絶えない宗派であったが、1466年奇跡的な和解が成立したことにより、宗教教団として安定していく。新興勢力の常として、日蓮宗は旧勢力から迫害を受けるが、信者拡大は止まらなかった。それは、京都への人口流入が止まらなかったからである。

応仁の乱のため幕府による京都の治安機能が止まると、信徒たちは自衛活動として治安を担っており、その活動を通じて軍事力を強めていったようだ。

信長 vs 宗教勢力

信長と敵対していた宗教勢力との争いは以下の通り。これを見ると信長はほぼどの流派とも争っていたことにある。

信長な最期を遂げた本能寺は日蓮宗派の寺であり、旅先では日蓮宗派の寺に滞在することが多かったらしい。

撰銭令

撰銭令という言葉も記憶にない言葉であったが、意味するところは悪銭の交換・流通レートを名目レートより下げることを意味する。これを行うと、実質の通貨供給量が下がってしまい、これもまたデフレ傾向に拍車をかけることとなる。

十二人の死にたい子どもたち

冲方丁氏の十二人の死にたい子どもたちを読んだ。ある目的をもって廃棄された病院に集った六人の少年と六人の少女。合わせて十二人。なぜ、彼らの人数を十二人にしたのかは、「怒れる十二人の男たち」に合わせて作者は十二人にしたのだろう。登場人物からは、なぜ十二人という人数になったのかは語られない。彼ら十二人の目的は、この病院で同時に自殺することだった。心中ではなく、殺人でもなく、自殺すること。しかし、何かの手違いがあり、そこもう一人の少年が紛れ込んでいた。しかも既に死んでいるようなのだ。そして、誰も彼のことを知らないという。このまま自殺を決行すれば、彼を殺した受け取れかねない状況になってしまっていた。

ここから物語が動き出す。主催者の少年は、このまま集団自殺を決行すべきかどうかで、多数決を取り、決定しようと提案する。そして、純粋にこの状況に疑問を持ち、このままでは集団自殺できないと、反対するものがいて、彼らは議論を開始していくのだ。怒れる十二人の男たちの様に。

作者は登場人物に謎解きにたけた少年を配することで、本作をミステリーに仕立てているが、物語の中で彼らがなぜ死を望むのかを語らせ、最後にはその死を望んでいる状況も解決するように話を進めていく。その部分は若干引っ掛かるものもあるが、うまくまとめていると思った。

この小説を読んで、久々に十二人の優しい日本人を見た。この映画もよくできていると思う。そして、本家本元の怒れる十二人の男たちも見たくなった。

「司馬遼太郎」で学ぶ日本史

磯田道史先生の「司馬遼太郎」で学ぶ日本史を読んだ。タイトルの通り、司馬遼太郎の作品を肴に磯田先生が戦国時代、幕末・明治、そして、司馬遼太郎をして鬼胎と言わしめた戦前の昭和を語る読み物だ。

国盗り物語

まず俎上に上がるの国盗り物語だ。磯田先生は、国盗り物語を以下のように読み解く。

ひとつは、合理的で明るいリアリズムを持った、何事にもとらわれることのない正の一面。そしてもうひとつは、権力が過度の忠誠心を下の者二要求し、上位下逹で動くという負の一面。(略)

この二面性を持ったものが天下人、すなわち「公儀」という形で、戦国末期の日本に出来上がりました。司馬さんは自分に拳骨をぶつけてきた日本陸軍の「先祖」が濃尾平野から生まれてくる過程を「国盗り物語」で描き切ったのです。

ここで述べている負の面に関しては本書で何度も出てくるが、司馬遼太郎をして鬼胎と言わしめた、軍隊の暴走につながる部分で、重要な分析だ。

花神

大村益次郎について書かれている「花神」では、大村益次郎を徹底した合理主義で時代を動かすリーダとして描いたと分析しているが、それと同時に無私の精神の持ち主だったとも述べている。医者の出であることから合理主義になったのであろうと述べているが、磯田先生は明確には述べていないが、無私の精神もきっと医者の出だったからだろうと思う。それはひとえに緒方洪庵の「医戒」が医者のあり方を無私となるべきと論じているからである。

「医師がこの世に存在している意義は、ひとすじに他人のためであり、自分自身のためではない。これが、この業の本旨である。ただおのれをすてて人を救わんとすることのみ希うべし」

ここでも昭和陸軍の原型として長州藩の「凶挙」というのが述べられている。楠正成の故事を引き合いに出し、勝てる見込みがないのに、忠義・動機が大事だと情緒的な妄動を行い破滅してしまう。この部分も軍隊の暴走につながる負の面である。

明治時代

「じつをいいますと、西郷は幕府軍を倒したものの、新国家の青写真をもっていなかったのです。新国家の青写真をもっていた人物は、私の知る限りでは土佐の坂本龍馬だけでした」(『「明治」という国家』上巻、第四章「"青写真なしの新国家"」)

というのを紹介している。「徳川幕府憎し」で幕府だけを倒すことしか念頭になかったのは、何とも今から見ると危ういことで、この時に日本が瓦解しなかったのが本当は不思議なくらいだ。

鬼胎

さらに問題だったのは、日露戦争で勝った際に数多くの軍人たちが、公・侯・伯・子・男の爵位を持つ「華族」になったことです。日露戦争で下級武士出身の維新の功労者が、主君の大名や上級公家を追い越して、爵位のうえで偉くなりました。(略)

政府は日露戦争後になんと100人もの人たちに爵位を授けてしまいました。

磯田先生はこれにより軍隊を目指す若者が多くなり、軍縮には向かわず、軍部が大きくなっていたのだとし、ここが鬼胎時代の萌芽だと論じている。