隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

錯覚の科学

クリストファー チャブリス、 ダニエル シモンズの錯覚の科学を読んだ。この本を読むと自分が見ているもの、記憶しているもの、理解しているものが本当なのかどうかわからなくなっていくる。

本書の中には6つの錯覚が説明されている。

注意の錯覚

ここで説明されている注意の錯覚とは、見ているはずなのに、それが知覚できない錯覚だ。人間は注意をもって着目していないと、あるいは別なものに着目していると、目に入っているはずなのに、そのものをも見落としてしまうことがあるのだ。たくさんの事例が説明されているが、この章のタイトルにもなっている、wikipedia:えひめ丸事故が象徴的だ。

2001年2月10日8時45分(日本時間)、アメリカハワイ州オアフ島沖で、愛媛県宇和島水産高等学校練習船だったえひめ丸に浮上してきたアメリカ海軍の原子力潜水艦グリーンビルが衝突し沈没させた。

この時艦長は浮上前に潜望鏡で周囲に船がいないことを確認していたのだ。しかし、艦長の眼にはえひめ丸の船影は見えていなかった。その本当の理由はわからない。しかし、ここで、注意の錯覚が発生した可能性がある。本当は存在していたのに、「通常は船など存在していない」という思い込みから、注意がそこに向かわずに、見落としてしまった可能性があるというのだ。

また、運転中の携帯電話操作もこの錯覚の影響を受ける。人間の脳には処理できる限界があるので、運転以外のことを処理すると、本来運転ために向けられるべき注意が散漫になってしまうのだ。これは携帯電話の操作に、一方の手が使われるためということではなく、携帯電話を通して会話することに人間の脳が予想外に処理を行っているためのだ。だから、ハンズフリーにしても、この注意の錯覚から逃れることはできない。

記憶の錯覚

我々は無意味な数字の羅列などは記憶しにくいが(また、そのことをよく認識しているが)、出来事と結びついていると記憶に残りやすい。その出来事が感情的な出来事であればなお残りやすい。しかし、我々の記憶は時間とともに変化し、時には「あったこと」だけではなく、「あるべきだ」と思ったことで上書きされてしまい、実際にはなかったことが記憶として定着してしまう場合がある。

私は覚えていなかったのだが、2008年にヒラリー・クリントンバラク・オバマ民主党の候補争いをしてた時に、ヒラリー・クリントンが犯した過ちも、典型的なこの例だという。ヒラリー・クリントンは1996年3月にボスニアのトゥズラを訪れた際の恐怖体験を、以下のように語った。

私は、着陸したときに狙撃兵の銃火を浴びたのを覚えています。空港では歓迎会が行われる予定でしたが、私たちはひたすら頭を低くし、基地へ向かう車まで走りました。

ワシントンポスト紙はこの発言に対して「歓迎式典で、ファーストレディに歓迎のための詩を朗読したボスニアの子供にキスをする写真」を掲載した。ヒラリー・クリントンが語ったような銃火はなかったのである。

自信の錯覚

自信の錯覚は誰しも経験したことがるだろう。自信をもってふるまっている人と、自信なさげにふるまっている人がいたら、われわれは自信をもってふるまっている人を信用してしまう傾向にある。相手の自信を能力の目安として信じてしまうのだ。しかし、自信と能力に相関関係があるかどうかはわからない。

また、能力のない人ほど自信過剰になりがちだという。

知識の錯覚

これはある意味自分に対しての自信の錯覚かもしれない。我々は、ついつい自分が一番理解している・知識があると思い込みがちでるが、なぜそうなっているのかという問いを自分自身に発し続けると、案外説明ができないことが多数ある。プロジェクト・公共事業の予定や予算が過小に評価されて、実際の期間や費やした費用が莫大になるのは、この錯覚によって起きていることである。

これを防ぐには、第三者の目を取り入れると、計画に対する見方が大きく変わってくる

原因の錯覚

これは偶然を必然としてとらえたがる人間の心理が引き起こす錯覚である。人間は現象に何らかのパターン(あるいは物語と言ってもよい)を求める傾向がある。そして、本来は相関関係しかない二つの出来事に因果関係をこじつけてしまうのだ。例えば、雨に日に関節炎が痛むというような相関関係。本当に雨が降った日だけ関節炎が痛むのだろうか? また、時系列で発生した二つの出来事を結び付けて、因果関係としてとらえてしまう傾向もある。例えば、誰それがCEOに就任した途端、業績が伸びたというような事例をみて、二つの出来事を因果関係で結び付けてしまう。

可能性の錯覚

ある意味この章が一番面白かった。可能性の錯覚とは、まだ開発されていない認知能力の大きな貯蔵庫が、脳の中に眠っているという思い込みである。そして、自分がそこに到達する方法を知らないだけで、貯蔵庫は開けられるのを待っているという思い込みだ。

一時期はやった、モーツアルトを聞くと頭がよくなる(知能テストの結果が向上する)という説もこの範疇である。これは反復実証実験においては、有意な差があることは示されていない。しかも、被験者は大学生や成人だったのが、いつのまにか、幼児、乳児、胎児にも効果があるという話に拡大されて、流布されていったのだ。

また、サブリミナル効果と知られている現象も、反復実証事件を試みても、同様な結果が得られていない。そもそも、ジェームズ・ヴィカリーが行ったサブリミナルの実験がインチキだったと自ら認めているのだ。

また、脳トレゲームの怪しさも指摘されている。脳トレゲームを繰り返し実施すれば、そのゲームに対してはスコア―を挙げることができるが、脳の若返りは期待できない。

応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱

呉座勇一氏の「応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱」を読んだ。「富子は我が子を将軍にしようと画策して乱を引き起こした」などという説も、最近では違ってきているようで、日野富子の影響も限定的であったらしい。自分の子を将軍にしたかったことは確かなようが。それに、足利義視の妻は日野富子の妹だったらしい。本書を読んでみて、登場人物が多くて(100人は優に超える)、やっぱり結構複雑で、メモを取りながら読まないと、何がなんだかわからなくなってしまう。それに、この本は奈良の興福寺の二人の僧が書き記した日記をもとに応仁の乱を俯瞰しているので、この二人が僧になったころ(応仁の乱のはるか前から)、説明がスタートしている。しかし、この二人の直接的な当事者ではないであろうから、このブログではあまり詳しくは触れない。呉座氏は本書の説明を足利義教以前から始めているが、さすがにそれは長い。歴史上の物事が、ある日を境に急に発生し、ある日を境に急に収束することは稀ではあるが、応仁の乱の手前の部分があまりにも長すぎると思う。

目次

興福寺

白河院の頃から摂関家の子息が興福寺に入るようになった。これは院政が定着しだすと、摂関家の権威が相対的に低下し、従来は藤原家の氏長者が行っていた、興福寺の人事に院が介入するようになったからだ。このような状況で、興福寺は軍事力を増強していった。いわゆる「僧兵」で、当時の言葉では「大衆」である。

当時興福寺には百を超す院家や坊舎があったらしいが、摂関家の子弟は入る一条院と大乗院は別格であり、門跡と呼ばれた。ほとんどの院家はこのどちらかに属し、門跡を頂点とする主従的な門流組織が形成されていた。

興福寺の僧侶は出自によって明確に区別されていた。

貴種
摂関家出身
良家
清華家、名家出身
凡僧
その他

凡僧は、時代が下ると、学問に専念する学侶、武装する衆徒に分かれ、鎌倉末期には衆徒が、六方と官符衆途に分かれ、官符衆途は仏事にかかわることはほとんどなく、興福寺領の荘園の荘官などを務めていた。

ここで重要なことは、門跡の主(門主)への就任は門跡の莫大な財産を相続することに他ならなかった。ただ、一条院と大乗院とは互いに争うことにより、門跡の権威は相対的に低下していき、荘園の直接支配も薄れていったようである。

経覚(きょうがく)

経覚は1395(応永2)年に関白左大臣九条常教の子として生まれ、応永14年に出家し、大乗院門主だった兄の孝円の弟子となった。孝円が死去したために、応永17年に大乗院門主になった。その後失脚と復権を繰り返しながら、1473(文明5)年に死去。経覚私要釥を残す。

尋尊(じんそん)

1438(享栄10)年、前年に足利義教の不興を買ったことにより、この年経覚は失格する。そして、その後継として、一条兼良の9歳の子が選ばれ、享栄12年出家した。この子が尋尊である。大乗院寺社雑事記を残す。

応仁の乱

御霊合戦が1466(文正元)年に起きる。

  • 1466年12月当時のグループ
  1. 畠山政長(管領) - 六角政高、赤松政則細川勝元、京極持清 (東軍)
  2. 畠山義就 - 山名宗全、斯波義廉 (西軍)

この時の直接の原因は畠山家の家督争い。ところが畠山義就が上洛して、布陣すると、1467(応仁元)年義政は義就が有利と判断して、1467年正月6日に畠山政長を罷免し、屋敷を義就に渡すように命じる。ここで、義就と政長の直接対決となるのだが、義政は両軍に加勢することを禁じた。義政は局外中立を保って、戦乱が拡大することを防ごうとしたのではないか。細川勝元は義政の言葉を守り、政長に加勢しなかったが、山名宗全・斯波義廉は義就に加勢したために、政長が破れてしまった。このことにより、細川勝元は面目をつぶされたとして、山名宗全に恨みを抱く。

5月になると全国で細川方が山名方への軍事行動を起こしていく。義政はひとまず細川・山名両方に軍事行動は控えるように命じるが、細川は将軍旗と山名治罰の綸旨を願い出、更に足利義視を討伐軍の大将にしてほしいと要請した。ここに両軍が合いまみえることになる。細川側が御所周辺に布陣したのに対し、山名側は堀川を挟んで一条大宮一帯に布陣した。

義視はこの機に乗じて権力基盤を固めようとしたのだが、次に将軍は我が子義尚をと思う日野富子の反発を招き、孤立をしてしまい、将軍御所から退去し、自邸に戻った。

最初は東軍の細川勝元側が有利であったが、西軍の山名側に決定的な勝利を収めることができず、膠着状態が続いた。そこに大内政弘が西軍に加わり、形勢は拮抗して、更に戦乱が継続した。

義政は1468年8月和睦を成立させ、事態を収拾させようと、伊勢から義視を呼びよせた。義視は9月に東軍の陣中に入り、奸臣を退けるように訴えた。奸臣とは義尚派の日野勝光(日野富子の兄)である。しかし、義政をそれを聞き入れず、かっての右腕だった伊勢貞親を政務に復帰させた(しかし、文明3年失脚、文明5年死去)。これに危機を覚えた義視は一旦京都を離れ比叡山に逃げたのち、西軍の斯波義廉の陣に入った。ここにいたり、将軍が二人存在することになったのである。

東軍側は西軍の斯波義廉に目を付けた。斯波義廉の軍は実質的には朝倉孝景が指揮を執っており、朝倉孝景に寝返りを働きかけ、結果安倉孝景は東軍側に寝返った(1472年ころ)。

西軍側は南朝の後裔を天皇として即位させようと動き始めた。当初は賛成していた足利義視も、朝倉孝景が寝返ったことにより、東軍・西軍の均衡が崩れたことにより、義視は兄の義政と和解に妨げになると判断したのか。後に反対に回ることになる。

文明3年(1471年)

京都で疱瘡が大流行し、厭戦気分が蔓延して、戦乱の早期終結が望まれるようになる。

文明4年 (1472年)

和睦を模索するも、まとまらないうちに、山名宗全細川勝元ともに隠居する。朝倉孝景は紆余曲折ありながら、越前を平定。

文明5年 (1473年)

山名宗全細川勝元死去。細川家家督は政元が継承し、細川政国が後見した。義政は義尚(9歳)に将軍職を譲ったが、将軍職の実務は義政が担った。

文明6年 (1474年)

山名政豊と細川政元の間で和睦が成立し、山名は東軍に降伏し、東幕府に帰参。それにより、西軍の主力は畠山義就大内政弘になる。終戦工作は日野勝光が担っていたが、勝光は文明8年に死去し、いったん交渉は頓挫する。勝光の死後交渉役となったのは、妹で義政正室の日野富子であった。義視は義政に詫びを入れて降伏し、大内政弘も降伏した。義視の処遇が決まらないうちに、大内政弘が国許に帰ってしまったので、義視は土岐成頼とともに美濃に下った。畠山義就も自国に引き上げた。

こうして、なし崩し的に西軍は解散したので、これが世に言われている「誰が勝ったかわからない」という状況になったのだろう。

応仁の乱

寺社本所領返還政策

義政は幕府再建政策として、寺社本所領返還政策(武家が公家・寺社から奪った荘園を元の持ち主に戻す)を進めた。まず、西軍方と交渉し、赦免を与えることを条件に、変換させようとしたが、容易ではなかったようだ。

義政隠居

1481(文明13)年義政は突如隠居すると言い出したが、この後もちょくちょく政治に口をだし、義尚と対立を深めていく。

義尚近江親征

1487(長享元)年義尚は近江守護六角高頼討伐のために自ら出陣した。理由は「幕府の寺社本所領返還に従わない」というのが表向きの理由らしいが、実際は近江の奉公衆46人が六角高頼の横暴を義尚に訴えたためらしい。一戦後、敗れた六角高頼は失踪し、以降六角家臣の散発的な抵抗が続いたが、義尚は在陣し続け、1488(長享3)年義尚は重病になり、死去した。

次期将軍

義政には義尚以外の男子はいなかったので、近親者である、弟義視の子の義財、庶兄正知の子清晃が候補となった。細川政元は清晃を推し、日野富子は妹の子ということで義材を推し、義政も富子に同調したので、次期将軍は義材となるが、富子と義視・義材親子は小川殿の相続問題手対立してしまった。

小川殿はもともとは細川勝元の邸宅の一つであったが、応仁の乱中から義政が使っていた。義政隠居後は改築して隠居所(小川御所)として使っていた。やがて、富子と義尚が移ってきたが、富子と義尚が不仲になり、義尚は小川御所を離れ、その後は富子の私邸となっていた。富子はこの私邸を、細川勝元に返そうとしたが、勝元は「恐れ多いこと」と辞退したために、富子は清晃に譲ろうとした。これは義視・義材親子を刺激した。小川御所は事実上将軍御所と認識されているので、それを清晃が手にする象徴的意味は少なくない。義視・義材親子は富子が清晃を将軍につけようとしていると勘繰り、小川御殿を破壊してしまった。そのことにより、富子が義視・義材親子を敵視するようになったのだ。

将軍義材

義材は朝廷から将軍宣下を受けて、将軍に就任したが、管領の勝元はすぐ辞任し、前途多難の出だしとなる。しかも、直後に母親良子、翌年には義視が亡くなり、後ろ盾を失ってしまった。

応仁の乱がもたらしたもの

戦法の変化

応仁の乱が長期化した一つに理由は、戦法の変化があり、まず防御施設の変化がある。その代表が井楼である。井楼は物見やぐらであり、楼の上に武器を備えていて、接近する敵を攻撃する(矢倉)。また、井楼は防御のためだけではなく、攻撃のためにも築かれたようだ。

また、投石器(発石木)も攻城のために用いられたようだ。

当時の日記には「城」という言葉も散見されているようだ。道路を掘って環濠としたようだ。当時の言葉では「御構」と呼んだようだ。

これら「井楼」や「堀・構」により、要塞化した屋敷に対する攻城戦となったために、戦いが長期化したらしい。

足軽

膠着状態を打開するために投入されたのが、足軽である。足軽は甲冑などを付けない軽装の歩兵である。足軽に町を焼き払わせたのだ。これは駐屯地・物資の集積地に打撃を加え、兵力・兵糧の補給を妨害する作戦だが、放火・略奪は敵軍だけでなく、京都在住の公家、寺社、庶民にも被害をもたらした。そのため、京都が荒廃していったのである。

守護大名

応仁の乱後大名は自分の分国に帰還するようになった。朝倉孝景に越前を奪われたようになことが起きないように、守護代に分国統治を任せると、百害あって一利なしと判断したためだ。それにより、将軍への求心力がますます低下することになり、戦国大名への道を開くことになる。

ITエンジニアのための機械学習理論入門

中井悦司氏のITエンジニアのための機械学習理論入門を読んだ。最近はやりの深層学習ではない機械学習なので、タイトル通り本当入門書といった感じだ。カバーしている内容も、

といった辺りである。最小二乗法とか最尤推定機械学習かと言えば、ちょっと違うと思うのだが、最小二乗法の場合にも、トレーニングデータとテストデータを用意する必要があることが書かれていて、当たり前なのだが、なるほどと思ってしまった。昔々、大学時代に、何かの実験の実習で、測定データーから最小二乗法を用いて、一次関数の傾きと切片を求めるようなことをした経験がある。当時は全ての測定データを用いて、傾きと切片を求めていたが、このようにすると機械学習で起きる過学習のような状況(オーバーフィッテング)になってしまい、求めた傾きと切片は必ずしも最適なものではなくなって、計算に用いた測定データ以外には適応できなくなってしまう。当時は、オーバーフィッテングの話を聞いた記憶はない。

それと、教師なしの機械学習について、なんとなくわかったようなわかってないような、あやふやな感じだったが、k平均法の項目を読んで、クラスタリング(グループ化)のことだというのが、今回わかった。だが、最後の項目のベイズ推定は、未だによく判らない。