隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

エンド・ゲーム―常野物語

恩田陸氏のエンド・ゲーム―常野物語を読んだ。これは光の帝国 常野物語 - 隠居日録中のオセロ・ゲームの続編で、長編小説である。

物語は前作の数年後、拝島時子が大学4年生の12月から始まる。時子は母親の暎子が出張先で倒れたという知らせを受け、動転しながらも、現地に駆け付けると、眠ったまま目を覚まさない母親がいた。会社の人の話によると、前日研修を抜け出して、知り合いに会いに行ったというのだ。しかし、拝島家には、その土地に知り合いなどいないはずだ。時子は途方に暮れて、あの冷蔵庫に張られていた連絡先(その紙自体は剥がされていて、母親が持ち出したと思われる)に電話をしてみるのだった。

本書のプロローグであるオセロ・ゲームを読んだときに、「裏返す」というのが具体的にイメージできなかったのだが、よく考えてみればタイトルがオセロ・ゲームで、そこから「裏返す」という言葉が出てきたと思われる。つまり、相手を自分と同じ色にする、自分たちの陣営側の人間にするということだ。今度の話では、新たに「洗濯屋」というのが出てきて、この洗濯屋は「洗って、たたいて、乾かして、白くする」のが彼らの能力だ。そうすると、拝島一家が属しているのは白色の方なのだろう。洗濯屋は相手の記憶を消して、新たな記憶を与える。

本作では拝島肇がなぜ失踪したのか、そして暎子の正体が明かされる。冷蔵庫に張られていた連絡先の人物、洗濯屋の火浦などが事件に絡んできて、いったい誰と誰が仲間なのかわからないまま、ストーリーが進行していく。本作は常野物語の一つ、前作において常野の一族について詳しく語られないかったように、本作でもなぜオセロ・ゲームをしているのかは明かされない。そして、なぜ洗濯屋がいるのかも明かされない。ストーリーではこの事件を経て拝島一家がどうなったで終わっている。

メビウス・ファクトリー

三崎亜記氏のメビウス・ファクトリー を読んだ。

政府が、「今後、すべての地方都市を維持することはできなくない」と切り捨て宣言をした世界の物語。すでに放棄された地方自治体も存在し、そこには姥捨ての老人達、国の支配を是としない自由主義者ワーキングプアで食い詰めた若者たちが住んでいると言われている。しかし、その町はME総研という企業のおかげですべてがうまく循環していた。この企業では国民生活に必須と言われているP1という製品を製造しており、住民はその製造に従事し、衣食住、娯楽が提供される町に住んでいる。町では独自の電子マネーが流通しており、給料も電子マネーで支払われ、ありとあらゆる支払いも電子マネーで済んでしまう。住民は町の外に出る必要は全くないし、実際は町の外に出ることは制限されていた。

少年の時にその町を離れ、15年ぶりにもとっで来たアルトの視点と、製造されたP1が正しく作られているかどうかを鑑定する新米鑑定士の遠山の視点、自惚れ屋で承認欲求の強い日比野の視点で物語は進行していく。

物語の中ではP1がいったい何物なのかということは説明されない。また、町には自治体というものがなくME総研内の「お付くし」と言われている部署が町の自治体機能を担っている。その部署は徹底した管理体制で住民を管理下に置いている。また、労働は「奉仕」、給料は「お戻り」と呼ばれており、「お疲れ様」や「ありがとう」の挨拶はすべて「お巡り様」と称される。このあたりはカルトにおける労働を想像させるような記述になっている。とくに、P1製造には正確性でも素早さでもなく、真心を込めることが求められる。真心がこもっていないP1は「みたま欠け」と呼ばれ、大変な問題となる。

アルトは戸惑いながらも街に溶け込もうと努力するが、徐々に町の異様さに気づき、反旗を翻す。そして、徐々に町で何が行われているかが明らかになっていくのだが、最後の章で何が真実かわからなくなる。そう、この本のタイトルはメビウス・ファクトリー 。表だと思っていると、いつのまにか裏になってしまう。この小説は何が本当のことかわからなくなる、不安を掻き立てる小説だ。きっちりとした結末を望むのならば、物足りなく感じるだろう。