隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

戦国大名の「外交」

丸島和洋氏の戦国大名の「外交」を読んだ。

ここで外交の部分が「外交」となっているのは、混乱を避けるためで、戦国期の大名を一つの国家とみなして、大名同士の交渉を外交としているからで、戦国大名が外国の国と独自に行っていた外交の話ではないからである。

本書は戦国期の大名の外交について非常に詳細に述べられていて興味深い。まず、なじみのない言葉がたくさんあって、そのあたりから理解していかないと、読み進めるのに苦労する。

取次
外交担当者
中人
和睦などの仲介者
国分
国境線の画定
手合
同盟者に対する軍事支援
手切
同盟破棄
乱取り
乱妨取りとも。敵国に責められた村落が略奪にあうこと
禁制
略奪にあわないようにお墨付きを大名からもらうこと
半手
国境に位置する村落に中立することを許すこと。年貢は両大名に半分ずつ収める
書札礼
お互いに交換される書状の作法のこと。またその作法を記した書物を書札礼書と呼ぶ

同盟や和睦の場合は、最終的には起請文を交換することになるのだが、そこには花押と血判が添えられた。血判というと指に傷をつけて拇印を押すというようなイメージがあったが、実際には花押に血を垂らすのだという。一方で信長は後年花押を押さずに、天下布武の判を押すようになったらしい。

経済で読み解く織田信長

上念司氏の『経済で読み解く織田信長 「貨幣量」の変化から宗教と戦争の関係を考察する』を読んだ。この本は非常に興味深い本だった。

本書は約290ページほどあるのだが、織田信長が登場するのは224ページ目からなのだ。では、それまで何を語っているかというと、室町時代-戦国時代の日本の状況を他の文献を参照しながら紹介しているのだが、この部分が実は非常に面白く、今までなんと知っていたことの意味を提示されて、なるほどと思ってしまった。

通貨を発行せず、通貨を輸入に頼っていた

平安~室町時代には日本では通貨を発呼していなかったというのは、大昔歴史の時間に勉強した記憶がある。そして、通貨を発行しないということの代替手段として、宋銭・明銭などの輸入通貨に頼っていたと。これが何を意味するかというと、政府が通貨流通量のコントロールをしていないとこを意味しているのだ。そのため、当時は慢性的に通貨が不足しており、経済の基調としては、常にデフレ傾向にあったのだった。そして、もう一つのポイントが「通貨を輸入していた」という点で、中国との関係がなかったり、中国の経済状況により朝貢貿易が止まると、通貨の輸入ができなくなり、これもデフレ傾向に拍車をかけることとなった。基本的な経済基調はデフレだが、足利義満の頃のように貿易が盛んになって銅銭の流入量が増えると、デフレ基調が大幅に緩んで景気が良くなった。

以前はなんとなく、中国から舶来品が入ってきて商品取引が活発になり、経済に好影響を与えたのだろうと思っていたのだが、実は重要なポイントは品物と同時に通貨も日本に入ってきて、通貨供給量が増えたので、一時的にインフレ基調になったのだと思われる。

もう一点重要な点は、米の購買力を基準に、日本と中国の通貨を比べると、同じ一貫であっても、6.74倍の差があったようだ。つまり、中国から銭を日本に輸入するだけで、価値が6.74倍に跳ね上がるのだ。

国際金融のトリレンマ

トリレンマという言葉を初めて目にしたが、ジレンマが2つの物事に関しているのに比べ、トリレンマは三つの物事に関して述べるときに用いるようで、国際金融のトリレンマとは、以下の3つのうち2つが成立すると、残りの一つを満たすことができないということのようだ。

  1. 固定相場制
  2. 金融政策の自由
  3. 資本取引の自由

これを室町時代に当てはめると、(1)と(3)が成り立つので、(2)を満たすことができない、つまり、金融政策に関しては何も実施できないということだ。現在においては(1)を棄てて、変動相場制度になっているので、金融政策は自由であるはずだが、今の日本の状況を見ると、金融政策は自由なはずなのに、打つ手がないように見えてしまう。

寺社パワー

実はこの辺りが最近もやもやして、もうちょっと知りたいと思っていることで、それは応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 - 隠居日録を読んで、少しはわかったような気がするのだが(寺社が荘園を管理することで富を蓄積し、また様々な理由から武装していたということ)、まだすべてがよく判っているわけではなかった。しかし、この本を読んで、なぜに当時の寺社勢力はそんなに力があったかについて、新たな知見を得ることができた。実はこの部分が読んでいて、一番面白かった。

天台宗 - 比叡山の主な収入源

後年信長により焼き討ちにされてしまった比叡山であるが、その収入源は以下の三つであった。

  1. 荘園
  2. 関所
  3. 金融

比叡山のある琵琶湖は北陸から機内に物資を運ぶためのシーレーンで、比叡山は湖上関を設け、莫大な通行料をせしめていた。その関所の数は11か所もあり、また、伽藍ごとにも関所があったようだ。それと金融とは金貸しのことで、金利は月8パーセントという高金利で、1年で金利が元本と同じ額になってしまうぐらいだ。荘園は近江地方を中心にあったらしく、鎌倉末期にはおよそ6万石はあったということだ。

臨済宗 - 京都五山

室町時代になると臨済宗は京都にも五山禅院を開き、室町幕府との関係を強化していった。当然これらの禅院も荘園を持ち、禅院の僧侶も私的に財産を有しており、また、荘園の代官となっている禅僧もいた。そして、臨済宗は博多の聖福寺を通じて中国貿易を抑えていたというのだ。この五山パワーをうまく利用したのが義満で、1401年に日明貿易を復活させて、五山にたんまり儲けさせ、その見返りに自分の政治権力を支えるように仕向けた。

義教 vs 比叡山

あの有名なくじ引き将軍の義教であるが、還俗する前いたのは天台宗青蓮院で、そういう意味では比叡山派であった。が、不思議なことに、1428年に義教が将軍に就くと五箇条の強訴で義教を困らせた。政治基盤が弱い義教はそれを受け入れるしかなかったが、その後比叡山に不利な判決を出すなどして、比叡山を締め付けて行った。1433年についに耐えられなくなった比叡山は十二箇条の強訴が出された。しかし当時の義教の政権は安定していたので、強訴の一部を見貯めたものの、守護大名の山名・土岐・斯波に比叡山を包囲させた。比叡山はこの強硬策に対抗できず、強訴の首謀者を隠居させ、幕府に降伏した。

しかし、関東公方足利持氏比叡山が内通しているという噂に義教が激怒し、1434年に近江一円の延暦寺の所領を没収し、陸上・湖上の交通を封鎖して通行税の徴収をできなくさせた。それでも、比叡山の過激派は抵抗を辞めず、幕府と比叡山の全面戦争に発展する直前で和平機運が発生した。

弁澄・円明・兼覚の三人の僧侶を身の安全を保障して召喚したにもかかわらず、拘束して斬首したために、激怒した比叡山は義教出家時のゆかりの寺である総持寺を焼き、坐禅院の僧侶20名が根本中堂に放火して、切腹するという事件が起きた。義教はこのことを口外することを禁止し、破ったものには厳罰で臨んだ。そのために数百名が命を落としたという。

一向宗 - 本願寺

1468年比叡山の攻撃により、堅田での活動の拠点を失った蓮如は北陸の吉崎に旅立った。そこでの成功モデルを各地に広げたのだ。

本願寺比叡山や五山と違い荘園を持たず、信徒からの喜捨で資金を集めていた。そのため、彼らとしては信徒を豊かにして寺への喜捨を増やすという戦略が必要だった。つまり寺を中心とした門前町を形成し、経済的・宗教的に結びついた町「寺内町」を作って拡大していったのだ。この寺内町はやがて都市特権(守護不入 地子免許 諸役免許)を獲得していった。そのために、時の権力者管領細川政元と強い関係を築いて行った。政元は特権の見返りとして、本願寺に戦力を要求することもあったらしい。この戦力が実は一向一揆と繋がっているのだ。

日蓮宗の軍事力

日蓮宗は創設以来内紛の絶えない宗派であったが、1466年奇跡的な和解が成立したことにより、宗教教団として安定していく。新興勢力の常として、日蓮宗は旧勢力から迫害を受けるが、信者拡大は止まらなかった。それは、京都への人口流入が止まらなかったからである。

応仁の乱のため幕府による京都の治安機能が止まると、信徒たちは自衛活動として治安を担っており、その活動を通じて軍事力を強めていったようだ。

信長 vs 宗教勢力

信長と敵対していた宗教勢力との争いは以下の通り。これを見ると信長はほぼどの流派とも争っていたことにある。

信長な最期を遂げた本能寺は日蓮宗派の寺であり、旅先では日蓮宗派の寺に滞在することが多かったらしい。

撰銭令

撰銭令という言葉も記憶にない言葉であったが、意味するところは悪銭の交換・流通レートを名目レートより下げることを意味する。撰銭とは質の悪い銭を選び排する行為であるが、多くの撰銭令では使ってよい貨幣と、使ってはいけない貨幣を指定していた。信長は更に悪銭の交換・流通レートを決めた。これを行うと、実質の通貨供給量が下がってしまい、これもまたデフレ傾向に拍車をかけることとなる。