隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

ウニはすごい バッタもすごい - デザインの生物学

本川達雄先生のウニはすごい バッタもすごい - デザインの生物学を読んだ。本川先生と言えば、「ゾウの時間ネズミの時間」を昔読んで、非常に面白かった記憶があり、本書も手に取ってみた。本書もかなり面白かった。

本書はいろいろな動物の体の仕組みや生態を紹介しているのだが、動物と言っても哺乳類ではなく、刺胞動物(サンゴ)、節足動物(昆虫)、軟体動物(貝)、棘皮動物(ヒトデ、ナマコ)、脊索動物(ホヤ)、脊椎動物というラインナップになっている。

サンゴ

サンゴと言えば、だいたい海の中で広がって群生している様子が頭に浮かぶが、あれは実は無生殖で増えた個体同士が結合している群体だというのだ。そして、体の一部が繋がったままになっている。ここからが、サンゴの生態の興味深いところなのだが、サンゴはその体の中に藻を住まわせているのだ。サンゴの組織を顕微鏡で見ると、褐色した丸い小さな粒が見えるが、これが渦鞭毛藻の仲間の植物プランクトン(褐虫藻)なのだ。サンゴと褐虫藻win-win関係の共生で、相利共生と呼ばれている。

褐虫藻の利益は

  • 安全な棲家
  • 紫外線からの保護
  • サンゴの排せつ物から、リンや窒素を得ている
  • サンゴから二酸化炭素を得ている

サンゴの利益は

これらの相利共生のおかげで、サンゴも褐虫藻移動することなく、増殖することが可能となっている。

昆虫

昆虫は最も成功した動物で、全生物の七割以上が昆虫だ。実は昆虫の繁栄も共生によって支えられており、昆虫の共生相手は被子植物だ。被子植物はきれいな花をつけ、昆虫の眼を引き、受精を手助けしてもらっている。その見返りとして、蜜や花粉の一部を提供している。しかも、特定の虫に対してアピールしたほうが、的確に受精の機会が増えるので、共に進化(共進化)したと考えられている。

昆虫が成功したのには他にも理由があるが、一つは外骨格が軽量で丈夫だというのがある。外骨格はクチクラという物質でできているが、クチクラ内には生きた細胞がいないので、ここは体外にある「死んだ」部分なのだという。クチクラの一番外側はキノンという化学物質で硬化させられている。昆虫は、このクチクラのおかげで、乾燥にも強く、空を飛ぶこともできるようになった。

昆虫におきる特徴的なこととして、脱皮があるが、体の内部までクチクラに覆われているところもあり、実はこの脱皮は非常に危険なのだという。たしかに、脱皮に失敗して死んだと思われる虫を見た記憶がある。

ナマコ

棘皮動物には脳も心臓もないそうだ。ただ単に本能だけで生きているということなのだろうか?

トカゲ

トカゲの歩くのを見ていると、タタタッタと数歩歩いては立ち止まりを繰り返すが、これは呼吸するために歩くのを止めなければならないということだ。胸の筋肉は呼吸する場合と、歩く場合とで使い方が違うので、同時にはできないようである。

生物のサイズとメリット・デメリット

生物のサイズとしては大きい方が有利らしい。

  • 機能を増やせる

体の内部に機能を備えなければならないので、サイズが小さいと最小限のものしか供えられなくなってしまう。そのため、体が大きいほど複雑な機能を備える余地がある。

  • 食われにくい

捕食者は通常自分より小さなものを狙う(通常は自分の体重の10分の1程度)。

  • 恒常性を保ちやすい

小さいものほど、体のサイズに対して表面積が大きくなってしまう。そのため、外界の影響を受けやすくなる。

ただし、細部が小さいことによるメリットもある。それは世代交代が速いので、突然変異が起きやすく、新しい種を生み出しやすいことである。

本書の中で、「○○するように××が進化して」というような記述がみられるが、「求めよさらば与えられん」ではないので、説明としては違和感を感じた。あくまでも、その方が他より有利だったり、効率が良いので生き残っただけなのだから。

最後に本書の最もユニークなところを述べると、各章の最後にその動物たちを褒める詩が載せられている。そして、巻末には楽譜も載せられている。もちろん、作詞作曲は本川先生である。

つまをめとらば

青山文平氏のつまをめとらばを読んだ。本作品は第154回直木賞受賞作品だ。

短編集で、表題作の「つまをめとれば」の他に、「ひともうらやむ」、「つゆかせぎ」、「乳付」、「ひと夏」、「逢対」が収められている。

今までの青山作品は、江戸幕府開闢から150年ほどたち、武士が武士としてのよりどころである「武」が揺らいでいる時代の、武士の迷い、その迷いから一歩踏み出すさまを描いたような作品が多かったが、この短編集に収められているのは、どちらかというと男女の機微が中心だ。


「逢対」は前半部は逢対には全然関係ない話から始まって、どういう風に相対に結び付くのだろうと思ってしまった。話の出だしはこうだ。貧乏旗本の見本のような竹内泰朗は近所の煮売り家を便利に利用していた。その煮売り家を切りもしているお里が「近所ならお届けします」と言い、それがきっかけで割りない仲になった。ここから急に逢対の話に切り替わる。逢対とは幕府の有力者の屋敷に顔をだし、覚えてもらい、何かの折に引き立ててもらおうとする、無役がする就職活動のことだ。或る日幼馴染の北島義人が訪ねてきた。義人がは十年も逢対を続けている。そして、「これがおれの武家奉公だ」と言い切る。そんな由人を見ていると泰朗は自分が逃げていると感じざるを得ず、武家を識ために義人に同行しようと考えるのだった。

江戸時代の武家は家禄というものがあり、それは今でいうところのベージックインカムのようなもので、何も働かなくても収入として入ってきた。もっとも役についていないものは小普請組に属することになり、逆にいくばくかの金銭を幕府に返納することになっている。そのように無役を代々続けると、畢竟「武」だけでなく、「奉公」という概念も揺らいでしまう。そんな男が逢対に出かけて行って見たものは何なのか、そしてお里との仲はどうなっていくのかというのが本編の筋だ。

「つまをめとれば」は妻を娶ろうかどうか思案ている五十代の役を退いた山脇貞次郎が、幼馴染の深堀省吾の屋作を借りるところから物語は始まる。貞次郎は新しい家に移れば踏ん切りがつくと思っていたが、そうならず、なんとなく年寄り二人の子供の頃の関係が心地よく感じてしまうのだった。物語は最後までどこに着地するのかわからず進行していくのだが、タイトルの「妻をめとるならば」に続く言葉がこの物語のおちになっていて、貞次郎は最後に決心を省吾に打ち明けるところで終わる。「妻をめとるならば」なので、妻をめとるかどうかは明らかにされない。ただ貞次郎の決心だけが明かされるだけだ。