隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

キュリー夫人と娘たち-二十世紀を切り開いた母娘

クロディーヌ・モンテイユのキュリー夫人と娘たち-二十世紀を切り開いた母娘 (原題 MARIE CURIE ET SES FILLES)を読んだ。日本語のタイトルは「キュリー夫人」になっているが、原題はMarie Curieになっていて、Madam Curieではない。本当にキュリー夫人という呼び方の方が定着していることをあたらめて思い知らされる。実はこの本を読むまでは彼女の名前がマリー(ポーランド語ではマリア)であることは全く記憶に残っていなかった。

キュリー夫人の名前はあまりにも有名だが、彼女について知っていることと言えば、ラジウムの研究でノーベル賞を受賞したことぐらいで、ほとんど知らなかった。まして、彼女に娘が二人いて、長女のイレーヌは母と同じく原子関係の研究をしノーベル賞を受賞していたことすら知らなかった。本当に知らないことだらけだった。

彼女が生まれた19世紀後半のポーランドはロシアに占領されていた。母親や姉を病気で亡くし、更に父親が公務員を罷免されたり、投資したお金が大きな損失で失われ破産したりと、苦しい経済状況の少女時代を過ごす。医者を目指していた姉をパリに留学させるために、ポーランドの地方の住みこみの家庭教師の職を3年務めたりした。彼女もパリに留学するが、経済状況は苦しいままだった。それでも勉強を続けて、1893年に物理学士号、翌年に数学士号を取得し、その後600ルーブル奨学金を受け取った。多分この頃にあるポーランド人の友人からピエール・キュリーを紹介され、後の1895年に結婚することになる。そして、二人は研究を続け1903年ノーベル物理学賞を受賞することになるが、本書によると、スウェーデン人数学者ヨスタ・ミッターク⁼レフラがマリーの名前が候補者の中にないことを不審に思い、ピエールに手紙を書いて知らせた。ピエールは「放射性物質に関する私たちの研究の結果について、私はキュリー夫人と共同で責任を負っていると思ってください」と答えた。本書にはこれ以上の詳細は書かれていないが、このピエールの返信により、マリーもノーベル賞を受賞することになったのだろう。一つ重要なことを記録しておくが、彼らはラジウムの研究では特許を取得しておらず、それはこの研究は万人に開かれるべきとの信念によることが理由であった。しかし、そのために彼らは常に研究資金難に陥っていた。1906年4月19日にピエールは馬車との接触で頭蓋骨を損傷し亡くなった。全くの突然のことだった。マリーはその後も研究を続けた。

1911年10月にマリーを不倫スキャンダルが襲った。本書を読む限り相手であるピエールの教え子のポール・ランジュバンとかなり親密な関係にあったようだ。ただ、翻訳が悪いのか原文が悪いのかよくわからないが、二人の間で手紙を交換したとかアパートの契約をしたというようなこと以外は正確に何があったのかは読み取れなかった。マリーはかなり非難されたようだが、一方のポールの方はさほど非難されなかったようだ。しかし、このスキャンダルの最中にマリーに2度目のノーベル賞が授与された。今度は化学賞だった。

マリーの娘のイレーヌとエーヴは数奇な運命を過ごすことになる。姉のイレーヌは母と同じ道を歩み、彼女もノーベル賞を受賞する。妹のエーヴは当初ピアニストを目指すが、残念ながら才能に恵まれず、その道をあきらめることになる。その後の彼女が何をしていたのか本書からはよくわからないが、社交界で浮名を流していたような印象を受けた。彼女が注目されたのは、母親の伝記を書いたからで、アメリカで出版されベストセラーとなった。その後二人は第二次世界大戦に巻き込まれた。エーヴィは辛くもフランスを脱出してイギリスに逃れられたが、イレーヌはパリを脱出できなかった。イレーヌの夫がレジスタンス活動から共産党に近づき、イレーヌ自身は共産党員にはならなかったが、その後共産党寄りの立ち位置にいた。姉妹の立場が歩み寄ることはなかったようである。エーヴは非常に長命で21世紀になっても存命で、2007年10月まで生きていた。

本書を読んでいて非常に気になったことがある。多分オリジナルのフランス語の表現によると思うのだが、多数の「~だろう」という言い回しが出てくる。現在の我々から見ると、すでに確定している過去の出来事に、推測するような「だろう」という言葉遣いは、実は不確かな事でもあるのかという不安な印象を受けた。フランス語でどのような表現であるのかわからないが、あまりこのような文章を見たことがない。

紫式部と藤原道長

倉本一宏先生の紫式部藤原道長を読んだ。2024年のNHK大河ドラマ紫式部が主人公なので、その関連本の一つだろう。倉本先生はドラマの時代考証もしている。本書はタイトルが紫式部藤原道長で、二人は同時代の人だが、一体いつどのように出会ったのかが不思議だった。何かヒントが書かれているかと思ったのだが、結論から言うと現存する一次史料からはわからないようだ。

紫式部の家系・家族

紫式部の父為時は藤原良房の異母弟の良門の子孫で、利基―兼輔―雅正―為時とつながる。母は同じく良房の兄の長良の子孫で、清経―元名―文範―為信―女とつながる。本名は不明だ。この女性は紫式部の姉、紫式部、弟惟規を生んだ後に、早世したようだ。また、紫式部の姉も若くして亡くなったようである。為時は再婚したが、後妻とは同居せず、後妻のもとに通ったらしい。後妻との間には惟通、定暹(出家)、女子を設けた。

紫式部の生年に関しては正確にはわからず、天禄元年(970)、天禄三年(972)、天延元年(973)、天延二年(974)、天延三年(975)、貞元元年(976)、天元元年(978)と様々あるようだが、決定的な根拠がなく、定まっていない。紫式部が育ったのは曽祖父の兼輔が残した堤第の半分の敷地であったようで、ここで夫の藤原宣孝を迎えたり、娘の賢子を育てたり、源氏物語を執筆したりもしている。

長徳二(996)年の秋、父為時が越前に赴任することになり、紫式部もともに越前に下向した。紫式部が結婚した年はわかっているようで、長徳四(998)年の冬で、この時宣孝は47歳だった。曽祖父の定方は右大臣まで登り、醍醐天皇外戚だった。父為輔は権中納言まで至っている。紫式部とは又従兄妹の関係だった。

源氏物語について

紫式部源氏物語をいつ頃からどのような経緯で書き始めたかということを示す一次史料はやはりないようで、当然道長がどのようにしてそれを知ったのかもわからない。

紫式部一条天皇中宮の彰子の許にいつ出仕したのかも定かではない。紫式部日記に寛弘五(1008)年12月29日に宮中に参上したと書かれているので、これより数年前には出仕したと思われるが、正確な日付はわからない。本書に「出仕は源氏物語のはじめの数巻による文才を認められてのことである」と書かれているが、これ以上具体的な記述はなく、「紫式部日記」には「主上(一条天皇)が『源氏の物語』を人にお読ませになられてはお聞きになっていた時に」というような記述があり、一条天皇源氏物語を読むために彰子の許を訪れるという道長のたくらみは成功したということだろう。

私は源氏物語を読んだことがない。というのも、光源氏という美男子の恋愛物語だというざっくりとした説明と紫の上と光の君の関係性が何かインモラル的に感じられて忌避していた。しかし、先日NHK BSの英雄たちの選択の「紫式部 千年の孤独 〜源氏物語の真実〜」を見ていて、紫の上と光の君の関係性は彰子と一条天皇の関係性をなぞったものだという説明を聞き、しかもそれは道長の要請だというのを知り、ひどく政治的な物語なのだと感じた。当時の実際の宮廷における人間関係を正しく把握したうえで読む源氏物語はまた違った姿が見えてくるのだと思う。

それと本書には書かれていなかったが、以前から「光源氏」という表記が不思議だった。「源光」ならば姓名という組み合わせになるが、なぜ逆さまになっているのだろうと思っていた。これは源氏物語に「光る源氏 名のみことごとしう…」という記述があるから、「光源氏」となっただけで、「光」というのも名前というわけではないようだ。