隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

戦国の軍隊

西股総生氏の「戦国の軍隊」を読んだ。氏はもともと城郭を研究していたということだが、敵の攻撃を防ぐための構造物という意味において城郭は軍事的構造物としてとらえているが、戦国時代を軍事的に考察した書物がなかったので、自ら執筆したということだ。以下本書を読んで印象に残った点を記す。

武士道の幻想

武士道という言葉が多用されるのは幕末以降である。尊皇攘夷論と密接にかかわりながら、日本人のアイデンティティが強く意識される中でしきりに使われるようになった言葉、それが「武士道」だったのである。

武士道といえば新渡戸稲造が有名だが、彼は若いことから欧米で過ごすことが長く、日本の古典に関する教養が希薄であったらしい。また、著作である「武士道」も欧米滞在中に執筆されたようで、日本の古典を実際に参照することはできなかったようだ。彼が引用している平家物語のエピソードも現在知られている平家物語の中には見つからないということだ。

ではどんな価値観、メンタリティーだったかというと、

謀略やだまし討ちなどは、「兵の道」や「武略」のなかに当たり前に含まれることであり、それに引っかかるお人好しの方が悪い、というのが武士の本来の価値観なのである。

 と筆者は記している。

兵農分離

織田信長戦国大名の中で一は早く兵農分離を行ったため、それが織田軍の強さの秘密だということを耳にすることがあるが、筆者は武田信玄長尾景虎の戦いがどの時期に行われていたかの考察より、実は武田家や上杉家でも兵農分離(農民を雑兵として徴用しない軍隊)が行われていたのではないかと考察している。

また、後北条家の「所領役帳」を調べ、知行地が分散していたり、共同の知行地になっていたりすることから、知行地から兵士としての農民を徴用するのは難しかったのではないかと考察している。

そして、戦国時代の軍隊は正規兵である侍と大量の非正規雇用兵(足軽・雑兵)からなる二重構造を特徴としていたのではないかと結論付けている。

兵種別編成

 もともと主従関係で結ばれている戦国大名と領主において、領主が戦争にひき連れてきた兵士がどのように部隊に編制されていったかを考察している。16世紀の中頃、鉄砲伝来に呼応するように、鉄砲隊、弓隊、槍隊などのように部隊ごとの編成に移行していったのではないかと考察している。これは鉄砲が命中精度に難があると言いつつも、特別な技能がなくても使えるという利点があり、また、混成部隊としての編成だと、兵力として生かしきれないという問題を解決するために、移行したのではないかと考察している。

兵站・兵糧

秀吉の北条攻めである小田原合戦に関して、果たして秀吉は十分な兵糧が準備できたのかということを考察しており、筆者はフロイスの日本史を参照して、

しかしそうした事態にもかかわらず、関白勢の窮状は否定すべくもなっかた。なぜならば、(北条殿の)城内には十分なたくわえがあり、多大な兵力を擁していたので、人力を持って諸城を占領することは不可能に思われた。関白の兵士たちは、遠隔の地方からの長途の旅で衰弱しており、豊富な食料にありつけぬばかりか、その点では不足をさえ告げていた。わずか数か月でもって城を陥落させることは、とうてい考えられず、まして冬季に入れば積雪のために包囲を継続できなくなって、退避することを余儀なくされる。

十分な兵糧が準備されていなかったと考察している。当然、兵糧がみな等しく分配されることはないであろうから、末端の兵士に対しては十分なかったのであろう。また、第二次世界大戦中も十分な兵糧が確保されることはほとんどなく、まして、16世紀の戦国時代においては、現地調達(略奪)に頼りざるを得なかったのではないかと、考察している。