隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

知らないと恥をかくアフリカの問題 (南アフリカ共和国の場合)

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NHKラジオ第二の「カルチャーラジオ 歴史再発見」で放送されていた「アフリカは今~カオスと希望と」の第四回目と第五回目。今回は南アフリカ共和国について内容だ。

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ケープタウン

 南アフリカは他のアフリカの植民地とはちょっと変わった歴史を持っていて、植民地の期間が非常に長い。1652年が一番最初の入植である。他のアフリカの地域では入植は18世紀になってから行われた。この地に入植し、開拓したのは、オランダ商館にいたヤン・ファン・リーベックだ。彼は、医者であり、商社マンであり、天文学者だった。オランダ政府から南アフリカケープタウンの入植担当するように言れ、ケープタウンに入った。ケープタウンはヨーロッパのアジア貿易の中継点としては格好の場所だったので、この地が選ばれたようだ。彼はこの地の気候が地中海性気候に似ているのに気づき、ブドウを作り始め、葡萄酒をヨーロッパ(フランスのボルドー)に輸出し、穀物を輸入するということを始めた。そして、見る見るうちに儲けていくことになる。当時日本からの品でヨーロッパで珍重されていたのは有田焼だが、高価な有田焼はみんなケープタウンで買い取られたようだ。1800年の初めにはケープタウンは大きな町になったが、1795年にイギリスが占領し、オランダから奪ってしまい、1815年には正式にイギリス領になってしまった。

 

トランスバール共和国・オレンジ自由国

そこに住んでいた5万人のオランダ人はイギリスの統治を嫌い、奥地に入っていき、今のヨハネスブルグの辺りに、トランスバール共和国、オレンジ自由国という国を作り、イギリスからは一旦自由になった。しかし、オレンジ自由国のキンバリーでダイアモンドが発見されたことにより、イギリスのセシル・ローズがやってくる。その後、トランスバール共和国で金が見つかることになる。

そうなるとイギリスがその2国を放っておくことができなくなり、ボーア戦争(1800年末から1900初頭)が勃発する。ボーアとはオランダ系アフリカ人の言葉で農民という意味。この戦争でイギリスは相当苦戦し、インドとスーダンから軍隊を呼び寄せて、1902年にようやく勝利を収める。

この戦争で疲弊したイギリスはロシアの南下に対応できなくなり、「栄光ある孤立」という政策を棄て、日本と日英同盟を締結した。これが日露戦争勝利の遠因になった。ボーア戦争勝利の結果、イギリスはトランスバール共和国とオレンジ自由国をケープ植民地に併合し、イギリス連邦の一つになった。

南アフリカ共和国

オランダ系入植者はこれ納得できないことで、その後何が起きたかというと、オランダ系入植者は人口を増やすことをした。1950年代頃には黒人2500万人、オランダ系300万人、イギリス系200万人となった。独立した後はオランダ系の人口が多いので、選挙で勝利し、イギリス連邦から独立し、1961年南アフリカ共和国となった。ようやく独立を勝ち取ったオランダ系入植者は自分たちの国を失いたくない(黒人渡したくない)ので、アパルトヘイトというものを生み出した。つまり黒人に選挙で負けないような仕組みを考えた。南アフリカ共和国に住んでいる2500万人の黒人達は部族ごとにある国に属している外国人である。だから、

  •  南アフリカでは選挙権はない
  • パスポートを携帯していなければならない
  • 白人のレストランを使ってはならない
  • 白人のトイレを使ってはならない
  • 白人と結婚してはならない
  • 白人と同じバスには乗ってはならない
  • 白人と同じベンチには座ってはならない

などのルールを作った。これに違反した場合は白人が罰せらせることになる。当初、黒人からは改善を求める陳情であったが、政府はそれに抑えこんだので、ゲリラ闘争になっていった。

シャープヴィル虐殺事件

1960年にパス法に抗議してヨハネスブルグ近郊のシャープヴィルの警察署に集まった黒人に対して警察が発砲し、69名が死亡した事件。警察はデモが解散したときに発砲した。

ソウェト蜂起

黒人居住区においてアフリカーンス語の授業の導入を決定した。これはオランダ系の白人が使っている言葉を黒人に強制したもので、オランダ系白人にとって黒人を労働させやすくなる。これに対して黒人学生がから反発が起き、デモにつながっていった。これに対して警察が発砲し、176人が死亡し、1100人が負傷者した。

経済制裁

これに対して、経済制裁が課せられることになった。例えば、

  • イギリスは一部の商品を南アフリカから買わない
  • アメリカはかなりの物品に関して購入を拒否する
  • 日本は南アフリカに資本を出さない

これに対して、南アフリカの財界が困った状況になり、財界はアパルトヘイトに反対するという政策を打ち出し始めた。例えば、隣国ザンビアにあるアフリカ民族会(ANC)の本部に使節団を送ったりもした。1989年にボタという大統領が脳出血で倒れて、その後デクラークが選挙を経ずに大統領に着いた。デクラークは大統領就任前はあまり目立った活躍をしていなかったが、大統領になった途端目覚ましい動きを見せ始める。アパルトヘイト廃止を推進したのだ。最初にしたのは、投獄されていたネルソン・マンデラと大統領官邸で極秘会談をしたことだ。デクラーク大統領は以下の問いをした。

  • ANCが社会主義をやろうとしているのか?
  • ANCが銀行と鉱山の国有化をするのか?
  • 白人に対して報復するのか?

マンデラはANCの代表ではないが以上の問い対して、「社会主義にはしない、国有化はしない、和解をしよう」と回答した。後年マンデラはこれが正しいと思ったから、そう決めたと言っている。この極秘会談により、アパルトヘイトは消滅していくことになる。その4年後一人一票の選挙が行われ、マンデラが大統領に選ばれた。