隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

藤原道長の権力と欲望 - 「御堂関白記」を読む

倉本一宏氏の藤原道長の権力と欲望を読んだ。本書は藤原道長が記した「御堂関白記」を中心に同時代に生きた藤原実資の「小右記」、藤原行成の「権記」を併用して、藤原道長がどのように権力の中枢に上り詰めたかが書かれている。

なぜ、平安貴族は日記を書いていたのか?それは、公式の正史が901年の日本三大実録で途絶えてしまい、先例がわからなくなってしまったため、自分で記録する必要ができてきたからだという。先例とは政務や儀式の式次第の進行を意味している。これも見ると、当時から日本では先例が重んじられていたようで、確かに公式の記録がなければ、何をどのように進めていいかわからなくなるのは、その通りである。

本書を読むと道長が権力の中枢に上り詰めることができたのは、本当に偶然ではないかと思えてくる。道長一条天皇の時代の長徳四(998)年に病のため辞表を提出しているのだが、その文面は以下のとおりである。
私は声望が浅薄であって、才能も荒撫である。ひたすら母后(栓子)の兄弟であるので、序列を超えて昇進してしまった。また、父祖の余慶によって、徳もないのに登用された。二兄(道隆・道兼)は、地位の重さを載せて早夭した。
この文面が、道長の状況をよく表していると思う。道長藤原兼家の五男(藤原時姫の所生では三男)で、兄が存命であれば、政権の座に就くことはなかったであろう。また、道隆は自分の子供の伊周に関白を譲ることを画策しており、また娘の定子を懐仁親王(一条天皇)の妃としていた。ところが、一条天皇が即位したあたりから(986年)、道長の昇進が始まった。990年に父の兼家が死去し、そのあと995年に道隆・道兼が死去したことにより、道長は内覧宣旨を受け政権の座に就いた。その後右大臣に任じらえた。これには母后であり姉の栓子の意向が強く働いたものと思われる。伊周は後年縁者が道長を呪詛したとして、失脚・左遷されている。
権力を盤石なものにするには自分の娘彰子を天皇に入内する必要があるが、それは999年まで待たなければならなかった。なぜなら、まだ彰子が幼かったからだ。999年になりようやく彰子は数えで12歳になったばかりだから、それでもまだ早い年齢だっただろうが、とにかく道長は急いだ。この年に定子が第一皇子(敦康親王)を出産し、1000年に内親王を出産しているが、その直後崩御している。
1001年に母后であり姉の栓子が崩御し、一条天皇道長も父母も兄弟もいない状況に置かれることになる。

1005年か1006年ごろにあの紫式部が彰子の許に出仕したらしい。そして、1007年になりようやく栓子が第一子(敦成親王)を出産した。ここに至りようやく道長の未来が固まりつつあったが、一条天皇には敦康親王がいて、一条天皇が病により退位するとき(1011年)に敦成親王を次の皇太子にすることを約束させてしまった。

この後即位した三条天皇道長は確執を持ちながら、妍子を入侍させている。三条天皇は1011年から1016年までの期間即位していたが、1014年あたりから道長は譲位を迫っていた。それは、そりが合わないからだけではなく、眼病により成務の実施が困難になっていたからである。現に、譲位を迫ったのは道長だけではなかった。

 1016年三条天皇が譲位し、敦成親王が即位し(後一条天皇)、道長摂政に就任した。この時点から道長は絶頂期を迎える。一年後には、摂政を息子の頼通に譲るが、大殿と呼ばれて、権力を行使し続けるのであった。1018年には威子が後一条天皇への立后が決定し、あの有名な

この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたる事も無しと思へば

の和歌を詠む。

道長の日記は「御堂関白記」と呼ばれているが、道長自身は関白にはついていない。これは、天皇大権を代行できる摂政と違って、関白は文書の内覧役になるので、それよりは左大臣兼内覧として太政官をも把握できた方がいいと考えてのことのようである。