赤坂治績氏の江戸の経済事件簿を読んだ。タイトルから江戸時代に起きた金銭絡みの事件に関して例を挙げて解説している本かと思ったのだが、実際は「事件簿」というほど事件に関しては解説しておらず、著者の得意分野である歌舞伎の戯作や草子などからいくつかを採録しているぐらいで、どちらかというと、江戸時代全般の経済の解説書といった感じの本である。
いくつか気になった点。
年貢率の推移
徳川家康は「七公三民」というとんでもない年貢率を設定したが、家綱が将軍に就任し、寛文年間(1661年-1673年)になると、「三公七民」と随分低い率になった。こののちも低下し、正徳二(1712)年には二割八分九厘(二ツ八分九厘)にまで下がった。このため、農民の生産意欲も高まり、また、開拓・開墾により耕地面積も増加し、技術の進歩も相まって生産性も向上した。このことが元禄時代の経済・文化の隆盛につながったと思われる。
しかし、吉宗の時代に年貢の計算方法が変えられてしまった。それまでの検見取法(米の豊凶を見て、出来高を算定して、年貢を決める)から定免法(米の出来高に関係なく一定の年貢率)になり、しかも五公五民と年貢率も引き上げられた。年貢率はその後も変化したが、平均すると四公六民ぐらいだった。
武士のアルバイト
化政年間(1804年-1830年)には貨幣経済はさらに進み、武士の困窮化も進んだ。その結果、御徒町の武士が朝顔の栽培を始めたのがこの頃らしい。そのほかには、鉄砲百人組町の躑躅栽培、青山鉄砲百人組の傘張りが有名なところ。
女犯
河内山宗俊の事件が文政六(1823)年に起き、その説明の中に、
当時僧侶の妻帯は禁じられていた。女犯が露見した僧は、江戸であれば日本橋の橋詰めに三日間晒され、寺を追放された。
しかし、現実には多くの僧侶が寺の外に女性を囲っており、女犯を口実とした恐喝が大流行していた。そのため、この年、今でいう刑法に「事実の有無に拘わらず、女犯を口実とした恐喝は入墨のうえ、鞭敲きの刑に処す」という条文が加えられている。
と書かれている。あまりにも、類例が多く、幕府も対応するのが面倒になったのだろうか。