隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

知らないと恥をかくアフリカの問題 (イスラム過激派の登場)

NHKラジオ第二の「カルチャーラジオ 歴史再発見」で放送されていた「アフリカは今~カオスと希望と」の第十二回目。紀元2000年を過ぎてイスラム過激派が登場してきた。

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ナイジェリア

ナイジェリアの北西部の村にボコハラムというイスラム過激派の集団が女子高を襲い生徒219人を拉致するという事件が2014年に起きた。それまでにもボコハラムは政府に対する武装攻撃、テロ攻撃、爆弾攻撃をしかけていたが、この女子高生拉致事件で一気に有名になってしまった。拉致した女子高生は、自分たちの性的な相手にしたりしている。そしてそのあと、その女生徒たちの服の下に爆弾を仕掛けて、市場とか、バスの停留所とか、人ごみのある場所に行かせて、爆弾を遠隔操作で爆発させるというテロ行為(自分たちは死なない爆弾テロ)を行っている。

なぜ、このようなことになっているのかということを考えると、ナイジェリアという資源があるにもかかわらず、うまく国つくりができなかった国の裏側が見えてくる。

ボコハラムの「ボコ」というのは「イスラム教育ではない教育」すなわち「西洋教育」を意味している。イスラム地域の村で、村に学校がないようなところでは、イスラム教の宗教指導者が子供たちを集めて、コーランを用いて、読み書きを教えている。そのような学校では、女の子はいなくて、男の子ばかりである。イスラム世界では、女に教育を与えるのはよくないことであると考えられているからだ。

ボコハラムの「ハラム」はアラビア語で「よくないこと」という意味だ。あわせると、西洋教育は間違っているという意味になる。彼らはそういう名前の集団だ。これはもともと、ナイジェリアの北西部のカヌリという部族が住む小さな村で始まったコーラン学校の名前だった。これがだんだん変化して過激派の名前となった。

アフリカでのイスラム教は10世紀ごろにまでには広がっていた。ナイジェイリアのような西アフリカには、サハラ砂漠をラクダで越えたアラブ人の商人たちとニジェール川を船で上ってきたアフリカ人商人達とが交易する拠点がナイジェリアとかマリとかにあり、アラブ人商人がイスラム教を持ち込んだ。また、東アフリカでは、船でアフリカの東海岸を南下してくるアラブ人の商人はモザンビークあたりまで下ってきて、彼らがイスラム教を持ち込んできた。アフリカのイスラム教の戒律は緩く、ヴェールをかぶらなくてもいいし、酒を飲んでもよかった。ただ、豚食は、もともとアフリカにあまりなかったので、タブーになっていた。ところが、紀元2000年に入ってから、過激で厳しいイスラム教がアフリカに広がっていった。これはアメリカの2001年の911同時多発テロ以降急激に広まっていった。

アフリカでは一部の人間に富が集中し、多くの人たちが貧困のまま残されている。将来に希望も持てない。就職の機会もない。失業率も4割、5割というとんでもない割合になっている。しかし、アフリカの若者たちはその理由がなぜかはわからなかった。911同時多発テロアルカイダという集団が「俺たちが貧しいのはアメリカの所為なんだ。アメリカが諸悪の根源なんだ」ということを言い始める。「アメリカ的なものに対する攻撃は正しい。欧米的、西欧的なものに対する攻撃は正しいことなんだ」ということをアルカイダが言い始める。このような考え方がアフリカの若者たちの間で一気に広まっていた。なぜなら、今まで考えてもわからなかった、なぜ貧しいのかということに、アルカイダが答えを与えてくれたからだ。欧米的なものの破壊という典型的な考え方がボコハラムだ。「西洋的な教育、女子に対する教育は間違っている。イスラムの教えではない。このようなものを受け入れてきたので、俺たちは貧しいままなのだ」

政府はボコハラムに対してどのような対応をしているかというと、全く対応ができていないのが現状だ。ボコハラムの指導者であるアブバカル・シェカウは早くに戦闘で死んでいるが、指導者は代々この名前を継いでいて、二代目、三代目が存在する。

ボコハラムは襲った町町で刑務所を解放し、囚人を自分たちの仲間に入れている。その結果、ボコハラムは大きくなっていった。現在でも三万人の規模がいる。2014年にISを支持することにより、金銭と武器をISから得ている。

マリ

 マリでは独立以来多数派の部族が政権を握り、独裁が続いた。そして、91年に政府が崩壊した。その後フランスの仲介で複数政党選挙が実施され、新しい政府ができたが、国家をコントロールすることができず、首都のバマコを治めるのが精いっぱいの状況である。国の北部には政府の力は全く及ばない状態が起きてしまった。

2012年になりトゥアレグという遊牧民の人たちが武装蜂起した。リビアの武器がマリに流れ込んできて、トゥアレグに武器が渡っていった。トゥアレグ遊牧民なので、「自分たちはマリの政府とは関係ない」という考えを持っていて、「独立するから認めろ」とマリに要求した。マリ政府は軍隊を差し向けたが、トゥアレグが持っている武器の方がはるかに優秀だったので、政府軍はコテンパンによられてしまった。軍が「武器を新しくしてくれ」と、政府に要求すると、「そんな金はない」とあしらわれたので、軍は怒ってしまって、クーデターを起こした。

ケニア

ソマリの真南に位置しているのがケニアだが、無政府状態になったソマリアに、過激派がどんどん武器を持ち込み、その持ち込んだ武器で越境してケニアに過激派が入っていってしまった。。

イスラム法廷連合というイスラム過激派の組織がソマリアでき、エリトリアの支援を受けていた。一方エリトリアと仲の悪いエチオピアはその組織を潰した。エトルリアソマリアの間にエチオピアはあり、エトルリアイスラム法廷連合と組んで、エチオピアを挟み撃ちにしようと考えていた。それを避けるために、エチオピアイスラム法廷連合を潰してしまったのだ。イスラム法廷連合は潰れたが、その中の青年部(シャバブ)は組織として残り、テロ活動を続けた。ソマリア自体は崩壊した国家なので、テロの効果がなかったので、国境を越えて西洋教育が行われていた、ケニアをターゲットにした。

シャバブはモンバサ辺りの大きなホテル、観光ホテル、リゾートホテルにロケット砲を 撃ち込んだり、車爆弾をしかけたり、モンバサ空港を跳びったった飛行機をミサイルで狙ったりした。或る日ガリッサにある大学の寮を襲った。その寮にいた学生たちに、イスラム教徒かキリスト教徒かを聞き、キリスト教徒はすべて殺した。彼らは毎月のように警察を襲撃したり、バスを襲撃したりしている。

まとめ

半世紀の間腐敗した政府・指導者が国民国家というものを作らないできた。その結果、貧富の差が非常に広がってきた。その貧富の差に不満を持っている人たちが、「敵は欧米なるものである。欧米なるものを叩き潰せ」という方向へ一気に動き始めた。

西欧列強が意味のない国境を作って植民地化し、それらの植民地を独立させてしまった。その時に部族問題が国の内部に取り込まれてしまった。それが火を噴いてしまったのだ。そのような国では、国民国家が作れない。複数政党を作っても、それは部族政党になってしまう。そうなると、多数を占めている部族政党だけが大統領を握ることになる。ちっとも政策というものが出来上がらず、民主主義は進まない。