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隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

殿様の通信簿

読書 歴史

磯田道史氏の殿様の通信簿を読んだ。本書のベースになっているのは「土芥寇讎記」という元禄期に書かれた書物である。これは公儀の隠密が探査してきた諸大名の内情を幕府の高官がまとめたものということである。土芥寇讎記には当時の大名234名の人物評価を載せてるが、本書の殿様の通信簿には、水戸光圀浅野内匠頭、池田綱政、前田利家、前田利常、内藤家長、本田作左衛門を載せている。

水戸光圀の項に「光圀は悪所通いをした」と書かれているが、それは当時の学者・書家・画家・文人に会うためには、屋敷外の悪所ぐらいしかなかったのではないかと推測している。

浅野内匠頭の項には、高家と城持ち大名の対比の説明がある。足利将軍や織田信長の子孫は高家とした。吉良家は高家で、禄は4200石であるが、官位は従四位上・左近衛権少将である。一方、浅野内匠頭長矩は従五位下である。三代将軍家光は、長矩の祖父長直に赤穂に城を築くように命じた。かたや高家の気位、かたや城持ち大名の意地が衝突したのではないかという推測だ。それと、長矩は女色にふけっていたと記述されているらしい。

前田利常の項は1、2、3と三章にわたって記述されており、なかなか面白い。まず、利常が面白いのだ。秀吉は朝鮮出兵の際に肥前名護屋城に武将たちを集めたが、利家もそこにいた。そこは陣中なので、女っ気がない。当然不満も出てきて、いさかいも起きる。そこで秀吉は、

陣中では、さぞ不自由であろう。ここで洗濯女を雇うように。国許から下女を呼び寄せるのも勝手。嫉妬をするような妻で、下女を遣わさないようなところは、妻本人が来なさい。

と言った。こうなると、妻本人は来にくくなる。金沢城でも「まつ」が下女に、誰か名護屋城に下るものはいないか、と尋ねたが、まつに気を使って、手を挙げる者がいない。そんな中で、「ちよ」という二十二歳の娘が、私が行きましょうかと言って、名護屋城に行った。その時に生まれたのが利常だ。利常は母親の身分が低かったので、幼少のころは苦労したようだ。

まつはちよにずーと無視を続け、無言の苛めをしたらしい。ちよは自ら利家のもとに行ったからだという。

利家は何を思ったのか、生まれた子を越中の前田対馬に預けた。それが、また何を思ったのか利常が六歳の時に急に会いたいといって、会った。この時、利家は利常の事を気に入ったようで、抱き付いて、体をさわり、「いい体だ」といったらしい。利常は利家に似て体が大きな子供だった。利家はこの後死んだ。

そして、関ヶ原の合戦が始まる。この時利常は人質(証人)として、丹羽家に送られ、そのおかげで、前田利長関ヶ原の戦いで戦功をあげることができた。そして、この後利常は利長の養子となり、前田家を継ぐことになる。

前田利常の正室は秀忠の娘の珠姫であったが、二人の仲は良かったそうだ。それを面白くなく思ったのが、珠姫の乳母であった局で、珠姫が24歳の時に、二人を合わせないようにした。その結果、珠姫は病になり死んでしまった。それに激怒した利常が、この局を「蛇責め」で殺したという(一説には、殺される前に自害したとも)。そのせいで、金沢城の厠にはこの局の幽霊が出たということになっている。

本田作左衛門の項も面白い。天正十(1582)年に、武田氏が滅び、甲斐の国を手に入れた家康は、安倍川の河原で大きな鉄の釜(直径4尺、深さ3尺7寸)を見つけた。それは「煎人釜」で、人間を中に入れ、火を焚いて焼き殺すための処刑道具だ。家康はケチなので、これはいいものを見つけたと思い、浜松へ運べと命じた。翌日、駿府から奉行が来て、この窯を運んでいると、馬上一騎、武者が馳せてきた。「寄らば斬るぞ」という恐ろしい形相をしている。この男が本田作左衛門である。作左衛門は釜を壊すように言い、自ら鉄槌でもって壊し始めた。人夫も一緒になって釜を壊した。作左衛門は奉行に(家康公に)

釜で煎殺すような罪人が出来るようでは、天下国家を収めることは成り申さずとて、作左衛門砕き候、と申されよ

と言った。それを聞いた家康は激怒したが、「奉行、大義なり」といった。作左衛門には

吾心得違を心付呉候段、忝く存ずる也。此後も猶頼み存ずる也

(私の間違いに、伊豆いてくれたこと、かたじけなく思う。この後も、なお、頼みに存ずる)

 といったということだ。