隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

鉄砲隊と騎馬軍団

鈴木眞哉氏の 鉄砲隊と騎馬軍団 真説・長篠合戦を読んだ。この本には今まで疑問に思っていたことに対するズバリの回答を提示されたという印象だ。「真説・長篠合戦」という副題がついているが、長篠の合戦の個々の詳細を語る本ではなく、長篠の合戦においてあったとされる戦術革命に関して考察を加え、そのような革命はなかったということを説明している本である。

長篠の合戦の設楽原の戦いでは、(1)武田の騎馬軍団が(2)鉄砲三千挺により壊滅させられ、(3)戦国合戦の戦術革命がなされたということがよく説明される。

武田騎馬軍団

私にとってはそもそも、武田の騎馬軍団というものが謎だった。武田の騎馬軍団には更に「戦国最強の」とい形容詞も付くが、この長篠の戦以外にも当然この騎馬軍団は従軍しているはずなのだが、いったいどんな戦いがされたのか、さっぱりわからないのだ。

「馬乗りの身分」とい言葉がある通り、馬に乗れるのはそれなりの身分のものでなければならず、今でいうところの指揮官か士官クラスでなければ乗れないのだ。そうなると騎馬のみあるいは主体の編成というのは現実的ではないであろう。また、よく言われるのは純日本種の馬の体躯の小ささである。また、当時は蹄鉄もないから、果たしてどれくらいのスピードで走れたのかもはなはだ疑問である。当時の戦闘においては、騎馬単独という形態はまれで、騎馬と歩兵を組み合わせて行われていたらしい。興味深いのは、当時は騎乗しての戦闘も稀だったらしく、そのことが、ザビエルやフロイスが本国の送った書簡に「下馬して戦っている」ことが記されているということだ。

以上のことより、映画・ドラマ等で見られる、集団で相手に突進していくような戦闘形態は戦国時代にはあり得ないだ。

鉄砲三千挺と三段打ち

今や、「鉄砲三千挺」というのははなはだ疑わしく、大田牛一の信長公記によれば「千挺計(ばかり)」と書かれているので、後年書かれた小瀬甫庵の信長記の「三千挺」を信じる理由はない。また、三段打ちも小瀬甫庵の創作であろう。訓練もなく命令の許一斉に射撃し、場所を交代するなどということはまず不可能であろ。この時の鉄砲隊は信長・家康の家来の寄せ集めの鉄砲隊であり、事前訓練などあり得ない。

また、設楽原の戦線は約一キロに及び、敵がどこから来るかわからない状況を考えて等間隔に千挺・三段の銃を配置すると、約三メートル間隔となりかなり手薄な印象を受ける。

戦国合戦の戦術革命

(1)と(2)が実際にはなかったので、当然(3)もないことになる。実際信長がこれ以降鉄砲三段打ちをしたということは聞かないし、武田の騎馬軍団の活躍もあったような話は耳にしない。

野戦築城

籠城 戦国時代に学ぶ逆境のしのぎ方 - 隠居日録で疑問に思っていた設楽原での野戦築城の件が本書で説明されていた(P215)。

  • 織田軍記 遠山信春 「各備えの前に切所を構え、柵を張り」
  • 甲陽軍鑑 「柵の木三重まであれば云々」
  • 三州長篠合戦記 「二重三重の乾堀を掘って、土居を築き……柵を付」

 などと記されているようだ。