隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

慶安の触書は出されたのか

山本英二氏の慶安の触書は出されたかを読んだ。タイトルから推測するに、慶安の触書は出されなかったというのが筆者の主張であろうというのは読む前にわかってたが、では「慶安の触書」と呼ばれていたものは一体何だったのだろう?後世につくられた偽書なのだろうか?それにしては、中学校・高校でまことしやかに家光の事績として「慶安の触書」が上がっていたという記憶があるのだが。

慶安の触書の触書は偽書ではないが、徳川幕府の発令したものでもない。そのもととなった文書は、甲州から信州に流布していた「百姓身持之事」三十六箇条が原型で、17世紀中ごろには成立していたと推測される。これが1697(元禄十)年に甲府徳川家の藩法として、百姓一般を対象とする「百姓身持之覚書」三十二箇条へと改訂された。その後暫くその姿が見られなくなるが、1758(宝暦八)年下野国黒羽藩が「百姓身持教訓」として採用することになる。以上が、その内容からいわゆる「慶安の触書」を追った経緯である。

では、なぜこの内容が慶安の触書となったのだろうか?それは、1830(文正十三)年に美濃国岩村藩が出版した木版本「慶安触書書」が強く関係している。ここで初めて「慶安の触書」が出てくるのだ。しかし、内容的には百姓身持之事と同等の物である。岩村藩のこの出版に関しては松浦静山が記した甲子夜話に、

八月八日、林子(林述斎)訪はる。話中に曰ふ。岩村侯(松平乗美)の家に慶安二年二月、公儀より普く民間に令ありし小冊あり。

と書いてあり、これが慶安の触書の存在を示唆するものとして引用されることが多いようだが、ここに出てくる林述斎は岩村藩松平乗薀の子で、林信敬の養子になった。つまり林述斎からの情報でそのように書いたことになる。では、なぜ林述斎がそのようなことをしたのかについて本書では推測であるが、林述斎は林家を再興した中興の祖であり、林家の初代林羅山の晩年の慶安の時代を顕彰する意図で慶安時代にそのような文書が公儀から流布されたとしたのではないかとしている。

私が歴史の時間でこれらのことを学んでから35~40年も経過しているので、色々なことが変わってきている。今の時代聖徳太子という言葉もことさら強調されないと聞くし、鎌倉幕府成立もいつのまにか1185年に変わっているという。これ以外にもいろいろ変わっていることがあるのだろうなと推測する。本書の出版は2002年で、既に15年が経過しており、その間恥ずかしながら知らなかった。