隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

クリスパー CRISPR 究極の遺伝子編集技術の発見

ジェニファー・ダウドナ及びサミュエル・スターンバーグの「クリスパー 究極の遺伝子編集技術の発見」(原題 A Crack in Creation: Gene Editing and the Unthinkable Power to Control Evolution)を読んだ。多分ニュートンなどの科学雑誌で「遺伝子編集技術が確立されて、実用化されてきている」というような記事を読んだのが、このCRISPRを最初に知ったきっかけで、その時はその内容の詳細はわからなかったので、興味を持ったが、それ以上は調べなかった。ところが、その技術の確立に携わった生物学者が書いた本があり、日本語訳が出たということでさっそく読んでみたが、非常に面白かった。内容的には重複することが書かれているので、冗長なところもあるが、著者らのバックグラウンドから、CRISPR cas9発見のいきさつ、CRISPR による遺伝子編集の影響など網羅的に書かれている。

例によって、CRISPR発見のいきさつは偶然のたまものと言ってよい。つまり、我々人類は未だに生命の仕組みがわかっていないということだ。CRISPRとはClustered Regularly Interspaced Short Palindromic Repeatの略でクラスター化され、規則的に間隔があいた短い回文構造の繰り返しということを意味しているが、これでは何を言っているのか全く分からない。ダウドナと共同研究することになるジリアン・バンフィールドの最初のミーティングの場面から引用すると、

ジルはCRISPRの図をすばやくスケッチした。まず最近の細胞をあらわす大きな楕円と、その中に染色体をあらわす円を描いた。それから円の情報に、DNAの領域をあらわすひし形と四角形を交互に並べた。この領域がCRISPRを示しているのはすぐわかった。
ジルはひし形をすべて塗りつぶしてから、それらが約30塩基の同一DNA配列だと言い、それから四角に1から順に番号を振って、それどれが異なる配列だと説明した。
やっとCRISPRの「クラスター化され、規則的に間隔があいた短い回文構造の繰り返し」の意味が分かりかけてきた。ひし形が「短い構造」で、四角の「間隔」がひし形の間に規則的に割り込んでいる。またひし形と四角の配列は染色体全体にランダムに散在しているのではなく、一か所に集中していた。

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このような奇妙なDNAの配列が細菌や古細菌に見られるという。また、ある研究によるとCRISPRのリピート配列の間に挟まったDNAの配列の多くが、既知の細菌ウィルスのDNAと完全に一致するというのだ。これは結局何を意味するかというと、これは細菌の一種の免疫機構で、感染してきたウィルスのDNAの塩基の一部を自分の中に取り込んで、次に同じウィスルが感染したときに効率よくそのウィルスを発見して、攻撃できるようにしているというのだ。ここでいう攻撃とはウィルスDNAの2本の鎖の切断だ。特に切断にはcas(CRISPR関連遺伝子)9が重要な役割を果たしていることが分かった。そしてこの発見により遺伝子編集ツールへの道が開かれたのだ。CRISPRに切断したいDNAの塩基のパターンをガイドとして挿入してやると、cas9をそのDNAの部分まで導き、切断するのだ。この仕組みは単純で、どんな生物のDNAにも適応可能だったのだ。

切断されたDNAはDNA末端を直接繋ぎ合わせるようにして修復されるので、塩基が欠落したりして、接合部において変異が起こりやすい。この場合は切断されたDNAからタンパク質が生成されなくなり、ある機能・形質が発現しないことになる。また、DNA切断の修復には相同組み換えというのもあり、塩基配列の類似した断片を特異的につなぎ合わせる方法がある。この場合は塩基配列の類似した断片を用意して、細胞内に送り込まなければなければならない。

CRISPRによる遺伝子編集と従来の遺伝子組み換えの違いは、CRISPRはピンポイントでターゲットとなる塩基を標的とするのに対し、従来の遺伝子組み換えはウィスルを用いて遺伝子をDNAの中に挿入する点が異なっている。CRISPRによる編集は痕跡が残らないが(CRISPRは細胞内で分解される)、遺伝子組み換えの場合は付加した遺伝子が痕跡として残り続けることになる。

さて、本書ではあまり正確に書かれていないようで、その点がもやもやとして残るのだが、CRISPRによる遺伝子編集の成功率はどうなのだろうか?この場合成功するとは、確実に狙った塩基で切断できるかどうかと、狙っていない塩基で切断されないということの両方を含んでいる。特に後者の方は深刻で、この率が高いと、遺伝子治療への道は遠のくと思われる。本書では誤って切断される場合があることは記されており、また、その対策法にも触れてはいる。

それともう一点。彼らは「高校生でも遺伝子編集ができる」と書かいているが、彼らが実際にやったことをいかに引用すると、

マーティンはまずCas9とCRISPR由来のRNAをそれぞれコードする細菌のDNAを、二つのプラスミドに導入した。プラスミドとは人口ミニ染色体の様なふるまいをする、小さな環状のDNAである。一つ目のプラスミドには、ガイドRNAをコードする遺伝情報と、ヒト細胞にガイドRNAを大量縫精製するように指示する別のDNA配列を入れた。二つ目のプラスミドにはcas9遺伝子を導入したが、それはヒト細胞内のタンパク質合成工場が読み取れるように「ヒト化」されていた。またマーティンはcas9遺伝子に、生物学ではよく用いられる二種類のたんぱく質をコードする遺伝子をつなぎ合わせていた。一つは各客在シグナル(NLS)と呼ばれる、タンパク質を細胞の核に導く小さなタンパク質。もう一つは緑色蛍光たんぱく質(GFP)で、紫外線に当てると緑色の蛍光を発するため、ヒト細胞のCas9タンパク質生成を確認できる。

となっていて、門外漢の私には、魔術の儀式とさほど変わらないような感じがする。

このCRISPRの影響は広範囲で、農業や医療への応用研究は既に始まっている。筆者らも現在の所、ヒトの胚細胞に対する研究は慎重になるようにと、呼びかけてはいるようだが、この技術があまりにも単純なため、誰でも実験できるところにその抑止のハードルの高さがあるだろう。