隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

白樫の樹の下で

青山文平氏の白樫の樹の下でを読んだ。以前遠縁の女 - 隠居日録を読んで、面白かったので他の作品にも手を出してみた。

読み終えて、改めて文章がうまいと思った。江戸の町名、橋、川が文章中にちりばめられており、そこを実際移動しているかのような印象を受ける。

物語は大膾と呼ばれる謎の辻斬りと一竿子忠綱作と言われる一振りの太刀が絡み合った時代小説である。四人の主要な男たちが登場する。そのうちの三人は小普請組に属する侍の若者で幼馴染で、佐和山道場で剣の修業をしている。

そのうちの一人は村上登。登は佐和山道場の師範代で、頼まれて錬尚館の道場破りの助太刀をしている。錬尚館の館長寺島隆光は自分の所の門弟が道場破りの相手をして、相手から恨みを買うことを嫌い、同流の道場の門弟に道場破りの相手をすることを依頼していたのだ。一番いい道場破りの対応法は、相手が戦意を喪失して、去ること。登は巧みに相手の戦意を挫き、戦うことなくして、事を収めていた。

また一人は青木昇平。父親が首をつって自死するようなことがあっても、明るさを失わなかった男。近所の子供たちを阿弥陀如来の出開帳に連れていった際、狂って抜刀して暴れている浪人の右腕を肘から切り落とした。そのことが顕彰され、小普請組から抜け出し、御入用橋等出水之節見廻り役の下役の職を得た。

また一人は仁志兵輔。近所の子供たちを阿弥陀如来の出開帳に連れていく予定だったのは本当は兵輔だったのだが、別な用事のために、昇平に代わってもらった。本当は自分があの浪人を成敗したのにと思っている。そして、同じような手柄を立てて顕彰を受ければ、自分にも未来が開けるのではないかと、近頃江戸で話題になっている大膾という辻斬りを仕留めようと追っている。

最後の一人は巳乃介。蝋燭屋の次男で、錬尚館の門弟である。刀好きが高じて、商いができるぐらい集めたが、田沼意次が失脚し、世の風向きが変わって来たので、殆どの刀を手放してしまった。残っていた一竿子忠綱作の刀を「刀が刀としてある様を見ていたい」と言い、登に預かってほしいと頼んだ。その後、巳乃介は紆余曲折あり小人目付のとなり、こちらも辻斬り大膾を探査することになる。

物語は主人公の登を中心に、辻斬り大膾の正体、侍とは何なのかを描きながら進んでいく。大膾の正体を探る所は、ミステリー的要素も含んでいる。

経済で読み解く明治維新

上念司氏の経済で読み解く明治維新を読んだ。経済で読み解く織田信長 - 隠居日録が面白かったので、こちらも読んでみた。実際の出版順はこちらの方が先だ。この本もそれなりに面白かったのだが、織田信長ほどは面白くなかった。

疑問に思ったところ

P45に財政構造として、

徳川家は400万石しかないのに、3000万石の日本全体を収めなければならない。

と書いてあるが、これは本当だろうか?徳川家は間接的にしか支配していないので、各藩の内政に関しては関与していないと思うのだが。このために、徳川幕府の財政難の根本的原因と書かれているが、この点には疑問が残った。

P89に田沼意次のことが少し触れられているが、意次の業績の一つに冥加金があるのだが、この点が抜けている。意次より前の時代は幕府の収入は年貢米のみであったが、意次以降は商工業への課税により、幕府の収入が増えのだ。幕府にとっては、年貢米が収入のもとであったが、これはお金ではないので、米を売ってお金に換えなければならない。しかし、米の価格というのは飢饉で不足しない限り、あまり上がらなかった。年貢米というのは収入という観点では、構造的な欠陥であったと思う。、

P105とP119に「金銀の算出のピークが1843年」という趣旨のことが書かれているが、P62によるとその年は1643年だ。単純な誤記と思われる。

P109に家光の頃まで幕府が諸藩に金銀を配りまくったというようなことが書いているのだが、この件に関しては今まで聞いたことがなかった。出典となる文書の提示がないので、真偽はわからないのだが、本当なのだろうか?むしろ、幕府が各藩に強制的に行っていた手伝い普請の所為で、藩財政に影響があったというのはよく見聞きする。それと、このあたりに参勤交代に関して書かれていて、

大名はこれにこたえるように、幕府との顔つなぎのために自ら進んで妻子を江戸に住まわせ、自身も積極的に江戸に参勤します。

と記述しているが、これはちょっとバイアスがかかり過ぎの記述ではなかろうか?「顔つなぎのために自ら進んで妻子を江戸に住まわせ」は言い過ぎのように感じる。

マクロ経済の恒等式

(貯蓄 - 投資) + (税収 - 財政支出) = 輸出 - 輸入

輸出より輸入が多く、右辺がマイナスになっているということは、左辺の貯蓄が投資より不足しているか、税収が財政支出より不足しているか、あるいは両方起きているかの状況となる。この状況では金銀銭は流出していることになるので、通貨供給量が不足していて、デフレになっているということである。

金銀交換レート

本書には為替レートと書かれているが、実際には日本国内の幕府設定による金銀交換レートの問題だ。日米修好条約の第五条により

外国通貨日本通貨は同種・同量での通用する。すなわち、金は金と、銀は銀と交換できる。

となっている。当時の一分銀は計数貨幣で4枚で一両になった。日本の金銀比価は金1に対し銀4.65であり、諸外国の相場(金1対銀15.3)に比べて銀の価値が高かった。そのため銀貨を日本に持ち込み、金に代えて日本から持ち出すと3倍の価値の金を持ち出すことができた。これにより、国内から大量の金が流出し、また国内に大量の銀が流入した。これは金含有量を落とした万延小判の鋳造で解決するまで続いた。

このため、1859年の開港以降に急激なインフレが発生してしまい、武士も庶民も生活が困窮することになってしまった。このことが攘夷の感情に火をつけ、開国を推進した幕府は人々の怒りを買ってしまったと書かれている。

経済で読み解く織田信長 - 隠居日録と本書を読んで、日本の経済はデフレ傾向になるのがデフォルトの状態で、時たま発生する好景気・インフレがむしろまれなのではないかという印象を受けた。そういう意味ではバブル景気以降デフレが続いているが、これも長い歴史の眼で見ると、稀なことではないような気がする。