NHKラジオ第二の「カルチャーラジオ 歴史再発見」で放送されていた「アフリカは今~カオスと希望と」の第三回目。今回は欧米諸国による植民地支配と奴隷貿易について内容だ。
ヨーロッパが入ってきてからアフリカはおかしくなった。では、いったい何が起きたのか?ヨーロッパの介入は3種類ある。
- 資源搾取(アフリカにあるものを只でひっぱり出してきて、自分たちが儲ける)
- モノカルチャー(単一作物の生産強制、たとえばコーヒとかカカオなどだけを作らせる)
- ヨーロッパの覇権争い
資源搾取
資源搾取で最も問題になったのが奴隷だった。これがヨーロッパとアフリカの最初でかつ悲劇的なかかわりだった。ヨーロッパで18世紀~19世紀に産業革命が始まり、急速に近代化が進み、大きな工場で大量に生産するようになった。そうなると大量の原料が必要になり、また、人でも必要になった。特に人手が必要になったのが、カリブ海諸国のサトウキビ生産と、アメリカの南部の綿花・サトウキビ生産だった。そして、そこに投入されたのが、奴隷の労働力だった。西アフリカではセネガルのダカールの近くにあるゴレ島にスレーブハウスという拠点ができた。そこでは島の砦の地下に買ってきた奴隷を一時的に収容し、ヨーロッパからの奴隷船が来ると、船で送り出していた。東アフリカではタンザニアのザンジバルという島にも同じようなスレーブハウスがあった。奴隷の確保はアフリカの現地の有力者と交渉して行われていた。アフリカでは始終部族争いをしていたので、馬と鉄砲とが奴隷が交換されていた。現地では馬と鉄砲得るために、対立する部族を奴隷として差し出していた。つまり、現地の人間に代理の奴隷狩りを行わせていたわけだ。18世紀から19世紀にかけておよそ1400万にぐらいの奴隷がアメリカに連れて行かれたと推測されている。また、当時のアフリカの人口はだいたい1億人ぐらいと推計されている。時代が下り、イギリスが1807年に奴隷制度を廃止し、1873年にヨーロッパ全体で奴隷狩りが終了することになる。しかし、この後も闇での奴隷売買は続いた。
モノカルチャー
奴隷廃止後に起きたのが、モノカルチャー(単一作物の生産強制)の問題である。一番有名なのはセネガルでの問題だ。フランス人入植者がそこで油を取るために落花生を栽培した。現地人は稗とか粟で自給自足の生活をしていたが、落花生のために、自分たちの食べるものが生産できなくなってしまったのだ。現地人は安い賃金を払われて、それで食料を買って食べることを強いられてしまった。で、彼らが何を買ったかというと米だった。米は仏領インドシナからの輸入品だった。同じようなことがギニア湾に浮かぶ島のポルトガル領サントメ・プリンシペで起きた。ここではカカオの生産が強制された。ここは島なので、もともと耕作地が少なかったが、カカオ以外を生産すると罰金が科せられた。その結果、独立したときに、現地の人たちは昔生産していたトウモコロシとかキャッサバの栽培方法を継承しておらず、生産ができなくなってしまったのだ。カカオは手入れが大変で、放っておくと、収穫ができなくなる。カカオの生産もできなくなり、自分たちの食料も生産できなくなりという悲惨な状況になってしまった。
こうして歴史を振り返ると、18世紀から20世紀の欧米諸国の繁栄は力による植民地からの搾取に大きく依存していたことがよくわかる。
ヨーロッパの覇権争
ヨーロッパの覇権争いはイギリスの3C政策と、ドイツの3B政策の対立であろう。