隠居日録

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2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

知らないと恥をかくアフリカの問題 (崩壊する国家ソマリア)

NHKラジオ第二の「カルチャーラジオ 歴史再発見」で放送されていた「アフリカは今~カオスと希望と」の第十回目。今回は東西冷戦終結ソマリアにもたらした問題。

冷戦前後

冷戦の終結が1989年のソビエト連邦の崩壊に端を発して起きた。そしてこの時期にアフリカで国家の崩壊に陥る国がたくさん出てきた。冷戦終結前は、アフリカには48の国があり、東西どちらかの陣営に組み込まれていた。例えば、ケニアとか南アフリカセネガルコートジボアール、ナイジェリア、ザールは西側に組み込まれていた。ソ連アメリカがそれぞれの陣営に属する国の数を競って、綱引き合戦をしていた。そうすると、国連で票がとれるからだ。当時は国家運営がへたくそでできない指導者でも、アメリカに道路を作ることを頼めば、作ってくれるような時代だった。ソ連の場合は武器援助、軍事援助が中心になって行われていた。

冷戦が終結すると、アメリカ・ソビエトからの支援・援助がなくなり、国家がふらつき始めるのだった。

ソマリアの独立からクーデターまで

ソマリアの人口は900万人ぐらい、資源はほとんどなく、農業生産もあまり高くない。この地域は、1800年代後半に、イギリス、フランス、イタリアが植民地にしていた。ソマリランドという北側をイギリスが、西側のジブチをフランスが、南側をイタリアが植民地にした。ソマリアはアフリカでは珍しく、ソマリ人という人々で構成されている国だ。1960年にソマリランドが独立し、それからイタリア領ソマリアが独立し、この二つが一緒になって、ソマリア共和国が成立した。ジブチエチオピア系のアファール人という人々が入っていて、ソマリア人とアファール人が半々という国で、この国は独立が遅れ、独立後も一緒にならず、ジブチという国を作った。

ソマリア共和国として独立したが、10年もたたないうちに、軍人によるクーデターが発生し、社会主義の国になった。シアド・バーレという将軍がクーデターを起こしたのだが、社会主義が何であるかを知っていて、社会主義にしたのではなく、社会主義にすれば独裁にできるということで社会主義の国にしたらしい。そのため社会主義的な政策は何もなかった。

資源がないソマリアで何を売りにしたかというと「地勢」だった。ソマリアはインド洋に突き出す角のような形になっており、ここはアデン湾から紅海に入っていく入口の部分をがっちり押さえていて、軍事的に有利な場所となっている。このポジションをソ連に売ったのだ。ソ連はここに軍港を作ることができ、その代償として武器(10万丁のカラシニコフ)を供与した。

オガデン紛争

1977年のエチオピアとの間でオガデン紛争が勃発した。オガデンというのは地域の名前で、エチオピアソマリアに角のように突き出ている部分である。このオガデンにはソマリア人が半分ぐらい住んでいる。それで、ソマリアはここもソマリアの一部だと主張して、エチオピアに戦争を仕掛けた。エチオピアでは1974年にハイレ・セラシエ皇帝を打倒して、社会主義政権が樹立していた。つまり、社会主義国同士の戦争になってしまったわけで、ソ連にとっては困った状態になってしまった。ソ連は最終的にはエチオピア側に就いた。ソマリアの人口は9百万人程度だが、エチオピアは8千万人なので、エチオピアを支援したほうがいいとソ連は考えたようだ。オガデン紛争でソマリアは何も得るものがなかった。そして、ソ連からの支援がなくなった、ソマリアのバーレ大統領はアメリカに寝返った。

バーレ政権崩壊

資源がないので、売るものがほとんどなく、農業生産物としてはバナナが多少あった。ODAを受けて、ODAで買い物をした部分に関税をかけることぐらいしか、政府の収入はなかった。しかし、それすらもすべてが国の収入とはならず、大統領のポケットに入っていった。大統領は自分の政権維持のために、首都周辺のウジ族の長老にお金をばらまいた。しかし、首都から遠い氏族には何の恩恵もない。そのため、恩恵がない氏族で不満が高まっていった。

1988年12月に地方の部族が武装蜂起した。その直後バーレ大統領はアメリカに支援を求めたが、1989年にソ連が崩壊し、アメリカも支援を打ち切った。そして、1991年にバーレの政権は崩壊し、ソマリアは大混乱に陥ることになる。特に大都市では警察が機能しなくなり、大混乱になった。警察が機能しないので、自衛するしかない状態だった。政府が崩壊したときに、人々はそのような状態になることを予見しており、政府の武器庫に略奪に行き、ソ連からもらって山積みになっていた武器を略奪した。

そのうちに、一人で自衛するのにも限界があるので、民兵集団ができ始めた。やがて民兵集団は暴力組織に変容し、お互いに対立するようになっていった。

1992年に国連が平和維持軍を派遣したが、アイディード将軍が国連平和維持軍に宣戦布告し、パキスタン軍が24人殺された。アメリカが翌年アイディード将軍を逮捕に向かい、民兵に攻撃を仕掛けたが、逆に反撃にあってしまい、18人が殺されてしまった。そのため、アメリカはソマリアから手を引き、1995年に国連も撤退した。

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