呉座勇一氏の「応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱」を読んだ。「日野富子は我が子を将軍にしようと画策して乱を引き起こした」などという説も、最近では違ってきているようで、日野富子の影響も限定的であったらしい。尤も自分の子を将軍にしたかったことは確かなようだが。それに、足利義視の妻は日野富子の妹だったらしい。本書を読んでみて、登場人物が多くて(100人は優に超える)、やっぱり結構複雑で、メモを取りながら読まないと、何がなんだかわからなくなってしまう。それに、この本は奈良の興福寺の二人の僧が書き記した日記をもとに応仁の乱を俯瞰しているので、この二人が僧になったころ(応仁の乱のはるか前から)、説明がスタートしている。しかし、この二人の直接的な当事者ではないであろうから、このブログではあまり詳しくは触れない。呉座氏は本書の説明を足利義教以前から始めているが、さすがにそれは長い。歴史上の物事が、ある日を境に急に発生し、ある日を境に急に収束することは稀ではあるが、応仁の乱の手前の部分があまりにも長すぎると思う。
目次
興福寺
白河院の頃から摂関家の子息が興福寺に入るようになった。これは院政が定着しだすと、摂関家の権威が相対的に低下し、従来は藤原家の氏長者が行っていた、興福寺の人事に院が介入するようになったからだ。このような状況で、興福寺は軍事力を増強していった。いわゆる「僧兵」で、当時の言葉では「大衆」である。
当時興福寺には百を超す院家や坊舎があったらしいが、摂関家の子弟は入る一条院と大乗院は別格であり、門跡と呼ばれた。ほとんどの院家はこのどちらかに属し、門跡を頂点とする主従的な門流組織が形成されていた。
興福寺の僧侶は出自によって明確に区別されていた。
凡僧は、時代が下ると、学問に専念する学侶、武装する衆徒に分かれ、鎌倉末期には衆徒が、六方と官符衆途に分かれ、官符衆途は仏事にかかわることはほとんどなく、興福寺領の荘園の荘官などを務めていた。
ここで重要なことは、門跡の主(門主)への就任は門跡の莫大な財産を相続することに他ならなかった。ただ、一条院と大乗院とは互いに争うことにより、門跡の権威は相対的に低下していき、荘園の直接支配も薄れていったようである。
応仁の乱
御霊合戦が1466(文正元)年に起きる。
- 1466年12月当時のグループ
この時の直接の原因は畠山家の家督争い。ところが畠山義就が上洛して、布陣すると、1467(応仁元)年義政は義就が有利と判断して、1467年正月6日に畠山政長を罷免し、屋敷を義就に渡すように命じる。ここで、義就と政長の直接対決となるのだが、義政は両軍に加勢することを禁じた。義政は局外中立を保って、戦乱が拡大することを防ごうとしたのではないか。細川勝元は義政の言葉を守り、政長に加勢しなかったが、山名宗全・斯波義廉は義就に加勢したために、政長が破れてしまった。このことにより、細川勝元は面目をつぶされたとして、山名宗全に恨みを抱く。
5月になると全国で細川方が山名方への軍事行動を起こしていく。義政はひとまず細川・山名両方に軍事行動は控えるように命じるが、細川は将軍旗と山名治罰の綸旨を願い出、更に足利義視を討伐軍の大将にしてほしいと要請した。ここに両軍が合いまみえることになる。細川側が御所周辺に布陣したのに対し、山名側は堀川を挟んで一条大宮一帯に布陣した。
義視はこの機に乗じて権力基盤を固めようとしたのだが、次に将軍は我が子義尚をと思う日野富子の反発を招き、孤立をしてしまい、将軍御所から退去し、自邸に戻った。
最初は東軍の細川勝元側が有利であったが、西軍の山名側に決定的な勝利を収めることができず、膠着状態が続いた。そこに大内政弘が西軍に加わり、形勢は拮抗して、更に戦乱が継続した。
義政は1468年8月和睦を成立させ、事態を収拾させようと、伊勢から義視を呼びよせた。義視は9月に東軍の陣中に入り、奸臣を退けるように訴えた。奸臣とは義尚派の日野勝光(日野富子の兄)である。しかし、義政をそれを聞き入れず、かっての右腕だった伊勢貞親を政務に復帰させた(しかし、文明3年失脚、文明5年死去)。これに危機を覚えた義視は一旦京都を離れ比叡山に逃げたのち、西軍の斯波義廉の陣に入った。ここにいたり、将軍が二人存在することになったのである。
東軍側は西軍の斯波義廉に目を付けた。斯波義廉の軍は実質的には朝倉孝景が指揮を執っており、朝倉孝景に寝返りを働きかけ、結果安倉孝景は東軍側に寝返った(1472年ころ)。
西軍側は南朝の後裔を天皇として即位させようと動き始めた。当初は賛成していた足利義視も、朝倉孝景が寝返ったことにより、東軍・西軍の均衡が崩れたことにより、義視は兄の義政と和解に妨げになると判断したのか。後に反対に回ることになる。
応仁の乱後
寺社本所領返還政策
義政は幕府再建政策として、寺社本所領返還政策(武家が公家・寺社から奪った荘園を元の持ち主に戻す)を進めた。まず、西軍方と交渉し、赦免を与えることを条件に、変換させようとしたが、容易ではなかったようだ。
義政隠居
1481(文明13)年義政は突如隠居すると言い出したが、この後もちょくちょく政治に口をだし、義尚と対立を深めていく。
義尚近江親征
1487(長享元)年義尚は近江守護六角高頼討伐のために自ら出陣した。理由は「幕府の寺社本所領返還に従わない」というのが表向きの理由らしいが、実際は近江の奉公衆46人が六角高頼の横暴を義尚に訴えたためらしい。一戦後、敗れた六角高頼は失踪し、以降六角家臣の散発的な抵抗が続いたが、義尚は在陣し続け、1488(長享3)年義尚は重病になり、死去した。
次期将軍
義政には義尚以外の男子はいなかったので、近親者である、弟義視の子の義財、庶兄正知の子清晃が候補となった。細川政元は清晃を推し、日野富子は妹の子ということで義材を推し、義政も富子に同調したので、次期将軍は義材となるが、富子と義視・義材親子は小川殿の相続問題で対立してしまった。
小川殿はもともとは細川勝元の邸宅の一つであったが、応仁の乱中から義政が使っていた。義政隠居後は改築して隠居所(小川御所)として使っていた。やがて、富子と義尚が移ってきたが、富子と義尚が不仲になり、義尚は小川御所を離れ、その後は富子の私邸となっていた。富子はこの私邸を、細川勝元に返そうとしたが、勝元は「恐れ多いこと」と辞退したために、富子は清晃に譲ろうとした。これは義視・義材親子を刺激した。小川御所は事実上将軍御所と認識されているので、それを清晃が手にする象徴的意味は少なくない。義視・義材親子は富子が清晃を将軍につけようとしていると勘繰り、小川御殿を破壊してしまった。そのことにより、富子が義視・義材親子を敵視するようになったのだ。
将軍義材
義材は朝廷から将軍宣下を受けて、将軍に就任したが、管領の勝元はすぐ辞任し、前途多難の出だしとなる。しかも、直後に母親良子、翌年には義視が亡くなり、後ろ盾を失ってしまった。
応仁の乱がもたらしたもの
戦法の変化
応仁の乱が長期化した一つに理由は、戦法の変化があり、まず防御施設の変化がある。その代表が井楼である。井楼は物見やぐらであり、楼の上に武器を備えていて、接近する敵を攻撃する(矢倉)。また、井楼は防御のためだけではなく、攻撃のためにも築かれたようだ。
また、投石器(発石木)も攻城のために用いられたようだ。
当時の日記には「城」という言葉も散見されようになり、道路を掘って環濠としたようだ。当時の言葉では「御構」と呼んだ。
これら「井楼」や「堀・構」により、要塞化した屋敷に対する攻城戦となったために、戦いが長期化したらしい。