隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

ニルヤの島

柴田勝家氏のニルヤの島を読んだ。

人体通信機構と繋がった生体受像により、人間のありとあらゆる生体活動が記録できるようになった時代では、記録された情報からいつでもその人の人生を叙述することが可能になり、その人が死んだ後にも、その人の人格に触れることができるようになった。それにより、人間の死生観は大きく変化し、死後の世界の概念も希薄になり、誰も地獄や天国のことを考えなくなっていた。しかし、ミクロネシア経済連合体(ECM)では世界で唯一死後の概念が残っており、そこを訪れた文化人類学イリアス・ノバックが本作品の主人公である。イリアスは浜辺で死後の旅に出るためにカヌーを作っている老人と会う。

もともと、この本を読もうと思ったのは以下のブックマークを見たからだ。

消えたプログラマの残したものは - megamouthの葬列 消えたプログラマの残したものは - megamouthの葬列

この作品がカーゴカルトに関して書かれていると何かで見たので、読んでみよと思ったのだが、ブックマークしてから半年もたっていた。実際はこの作品で書かれているのはカーゴカルトそのものではなかった。ECMでは島々が大環橋(グレートサーカム)で結ばれており、船は必要でないのだが、「死後の旅に出るためにカヌーを作っている」という行為、そして操船するために練習している行為がカーゴカルトに似ていると登場人物の一人が考えているだけだ。カーゴカルトでは船などにより外から富や豊かさがもたらされるのであるが、作品の中では死後の安息を得るために船でニルヤの島に行くことが目的になっているので、若干違ったものであろう。

ただ、この作品を読んでいて、我々の行っている儀式とか形式などというものが、カーゴカルトにおける富を得るための外部の文化・文明の模倣に過ぎないのではないかと強く感じた。その行為を行っている意味を我々は理解しているのだろうか?

本編はGift、Transcription、Checkmate、Accumulationの4つのストーリが語られていて、ちょっと読みにくいのだが、何とも言えず不思議な小説になっている。