隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

私たちはどこから来て、どこへ行くのか: 科学に「いのち」の根源を問う

ドキュメンタリー映画監督の森達也氏の「私たちはどこから来て、どこへ行くのか: 科学に「いのち」の根源を問う」を読んだ。

本書は森氏が科学者と「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」をテーマに対談した内容をまとめたものである。ただ、単に対談した内容をそのまま書き出しているのではなく、対談した内容をもとに、森氏が文章を書いている点が普通の対談集とはちょっと違った感じになっている。対談集とはいえ、通常はだれかによって編集されているので、必ずその編集者の視点が入っているはずだ。なので、編集していませんという体裁をとっているよりも、誠実な記述になっていると思う。対談した相手は以下の通り。

対談のテーマが「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」なので、現代科学をもってしても答えなど出るわけもなく、本書を読めば、結局人類はまだ何もわかっていないのだということを改めて思い知らされることになる。どんな単純な単細胞生物すら未だに合成できない。

本書を読んでいて興味深かったところ。

科学はなぜに答えない

現代科学ではどうなっているかということにはいろいろ解答を与えてきた。しかし、通常なぜそのようになっているのかについては、答えを与えてくれない。たしかにこれは気づいていなかった。仕組みを説明する過程で、なぜにも答えることはあるかもしれないが、なぜに対してストレートに答えることはないだろう。例えば、物理の様々な定数がなぜその値になっているのかは全く不明だ。

人間の脳は高コスト

人間の脳は体重のわずか2%だが、1日に消費するカロリー量は20パーセントを占める。つまり神経系はとてもコストがかかり、燃費の悪い臓器になっている。なので食生活に余裕のある生物でなければ、神経系は進化しない。よほど条件が良くなければ、脳の進化は望めない。では、なぜ人間は脳を進化させるだけの資源の余裕が生まれたのか? 長谷川寿一氏は、共同繁殖社会だから余裕が生まれたと考えている。

生命活動は小さな渦巻

熱力学の第二法則によって、あらゆる存在のエントロピーは増大することが実証されている。つまり、宇宙はフラットな方向に向かっている。しかし局所的、あるいはミクロな視点で見ると、地球上での生き物の進化は無秩序から秩序に向かうので、エントロピーは増大から減少に向かっている。一見すると熱力学の第二法則に反しているように見える。しかし、生命活動を小さな渦ととらえると、面白い気づきがある。水は高いところから低いところに流れ、位置エネルギーを失う。ただ、水は途中で渦巻きを作る。渦巻きはパターンであるので、その部分に着目するとエントロピーは減少している。ここで、生命をこの渦巻になぞらえてみると、生命が生きている限り生命のパターンは残っているが、生命の細胞自体は代謝によって入れ替わっている。この渦巻があった方が、明らかに全体を取り囲む環境を含めたエントロピーが速く増大しているように思われている。例えば、一升瓶の中に水が入っているときに、ビンをさかさまにするよりも、ビンを振って、渦を作った方が速く水が抜けていく。局所的にはエントロピーが減少しているけれど、全体的には増える速度が増している。

「自己を問うという」言語のトラップ

人間は自分の脳に、本当は考えなくてもいいような問題を考えるように仕向けられている。そもそも自分が存在する理由なんて考えなくてもいいじゃないですか。言語とはもともと、社会性の涵養や記憶の補強、他者に対する理解のために使われるものだった。つまり、あくまでもコミュニケーションのツールであって、「自分って何だろう」と自問するために編み出されたものではない。ということは、私たちは、言語を本来の用途以外に使っていることになる。
ここで言語の副作用として「自己を問う」という虚構トラップが生まれて、私たちはその罠にまんまとはまってしまっている。これがトラップである理由は、それが構造として無限ループに陥りうるからです。仮に、「自分って何だろう」という問いの答えが出たら、その個体を吟味して、さらに「そんな答えを出している自分って何だろう」という上位階層の問いを自分に投げかけることができます。延々と終わらないのに、実体がない。ラッキョウの皮をむいていったら実がなくなってしまうのと同じです。行きつく先の空虚さが明確であるにもかかわらず、それでもなお問いたくなってしまうのは、トラップとしか言いようがない。

物理法則は宇宙共通か?

E=mc^2というのはあくまで、ヒトに理解できるように考えられた数式ですから。宇宙は、ヒトに理解されることを目的として存在しているわけではありません。ヒトが物理則を構築するか否かとは無関係です。ヒトはただ自分に理解できる範囲の数式で表しているだけであって。ですから、地球人の法則と宇宙人の法則は違うことはあるはずです。宇宙人は自分たちなりの宇宙の法則を持っていてもおかしくない。でも私たちには、彼らの法則は黒魔術でもやっているようにしか見えない。ヒトの思考の射程距離はせいぜい、そんな程度です。

神を前提とする西欧、神のいない日本

神さまがこの世を作ったという前提がある限り、科学がそれを模倣することは基本的によいことであると見なされる。だって、神さまは善なる存在なのですから。だからその過程でいろんな失敗があっても、それは模倣の仕方が悪いことが原因だから、もっと改善していけばいいということになる。だから例えばボーイング787から火が出ても、「きちんと対策を講じればまた飛ばしていい」ということになるわけです。

おそらく日本であれば、それは絶対に許されないですよね。なぜなら日本の場合は、自然科学は善だという感覚はないと思うんです。むしろ科学技術は必要悪だと見なされている。本来、自然はいじってはいけないものだけれど、便利でうまくいくのであればそうさせてあげよう。ただし失敗したら、もう二度といじらせない。そういう厳しさがあるような気がしています。

武内薫