隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

戦国と宗教

神田千里氏の戦国と宗教を読んだ。

戦国大名と信仰

勝ち上がりの条件 - 隠居日録において軍師が呪術的な側面を帯びていたことが言及されていたが、戦争という行為自体が呪術を必要としており、戦場に臨むものは神仏の加護を必要とし、お守りを携行していた。それは例えば、矢除け・弾除けのお守りである。これはキリシタンにおいても同様であった。また、鎧・甲に神を勧進することも行われ、具足のお守りとして梵字を袖・胸板・押付・兜の背面と表に書いた。
また、相手方を呪術で調伏するようなことも行われていた。

キリシタン

当時の日本人の関心事が「家族の死者に対する法事」があり、死んだ父母や妻子を地獄から救えないかということであった。それについて尋ねられたフランシスコ・ザビエルは次のように記している。

日本のキリスト教徒たちには、一つの悲嘆があります。それは、地獄に堕ちたものにはいかなる救いもない、と私たちがいうと、彼らが深く悲しむことです。彼らがこのことを悲しむのは、亡くなった父母、妻子やその他の死者たちへの愛のために、この者たちを哀れんでいるからです。

織田信長キリスト教に対して好意的だったと言われているが、それを明確に裏付ける日本側の資料は殆どないということである。

面白いのは、戦国大名といえどもが家臣の同意なしにキリストに改宗できなかった。それは戦が神仏の加護を必要とする側面があるので、かってに改宗して、神仏の加護を得られなくなると、戦に負けてしまうと信じられていたからである。

秀吉の伴天連追放令

秀吉がキリスト教を警戒して、発令した伴天連追放令は、島津氏を討伐して帰国する途中の博多で天正十五(1587)年六月に出された。十八日の「覚」と題する十一ヶ条の文書と、翌十九日の伴天連追放令としての五カ条の文章がそれにあたる。「覚」では、

  • 一般にキリスト教を信じるか否かは個人の自由である
  • ただし、信仰の強制は不法
  • 一定の規模以上の領土を持つ大名に関しては、入信に当たり秀吉の許可が必要
  • 大名が家臣・領民にキリスト教信仰を強制するのは(本願寺門徒の行為よりも)不当であり、今後制裁を加える
  • 日本人が海外へ人身売買されていることは不法
  • ポルトガル人が牛・馬を食する風習は不法

と断じている。この「覚」が出された経緯は、伊勢神宮が秀吉に訴えたために出されたということだ。これはイエズス会の洗礼を受けた蒲生氏郷が伊勢半国の大名になったことへの警戒が背景にあるようだ。
1587年の10月2日付のルイス・フロイスの書翰によると、「覚」の出された日に日本のイエズス会を統括する副管区長であったガスパルコエリョに以下の三カ条の詰問があったという。

  1. イエズス会はなぜ日本人にキリシタン信仰を強制するのか、なぜ日本の僧侶と協調できないのか。今後九州に活動範囲を限定し、日本の僧侶の行う通常の手段による布教以外は許さない。それが不満なら、帰国せよ。帰国の船賃は秀吉が出してもよい。
  2. 運送・戦争に使用される馬、農耕に使用される牛を食するというが、それは日本の財産を損なうことである。もし、肉食をしたいのなら、鹿や野生のブタなどの食用の獣類を提供する用意がある。それを受け入れないのなら、日本に滞在してほしくない。
  3. ポルトガル人をはじめ、東南アジアからの渡来者が日本人を大量に買い取り、故国やその親族・友人との絆を奪い奴隷として売買していることを咎め、売却された日本人が故国に戻れるように尽力せよ。もし全員が無理なら現在日本から買い取った者たちを解放せよ。そのために身代金を秀吉が出す用意がある。

これに対して、コエリョは逐一反論し、

  1. 信仰を強制したことはないこと、神社・仏閣を破壊したものは信仰を得た日本人の自発的な行為である。
  2. 馬を食する習慣はなく、食したこともない。牛を食したことはあるが、好ましくないということならしないで済ます用意がある。
  3. むしろこちらから禁止を願いたい事柄であり、主に港を管理する日本人領主が容認していることの方が問題である。

と回答した。
これを受けて翌日、秀吉から使者が派遣された。第一の使者が改めて第一項目の「神社・仏閣の破壊、仏像を焼くという破壊行為」を糺すと、同じ回答を繰り返した。その次に訪れた使者によりいわゆる「伴天連追放令」が伝達され、その正本をポルトガル国王の権限が付与されたかピタン・モールの地位にあるドミンゴスモンテイロに渡され、執行がポルトガル人にゆだねられることになった。
コエリョの回答が全く不十分で、神社・仏閣の破壊や人身売買への回答が事実と乖離しているものであったことは既に研究で明らかにされている。