隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

吉田松陰: 「日本」を発見した思想家

桐原健真氏の吉田松陰: 「日本」を発見した思想家を読んだ。本書は吉田松陰の思想がどのように変遷したかが主眼になっていて、吉田松陰自身の生涯にはあまり詳しくは触れていない。とはいっても、生い立ちなどはその人の人格を形成するうえでも重要であるので、そこのことについては触れられている。

生い立ち

松陰の生い立ちは複雑である。松陰の父には二人の弟がおり、次弟の大助は山鹿流兵学師範の吉田家に養子に、末弟は玉木家に養子に入り、それぞれ家を継いでいる。次弟の大助は病弱だったので子がおらず、天保五(1834)年に甥にあたる松陰を養子にした。この時松陰は数えで5歳。そして、翌年には養父が病死するので、松陰は六歳で吉田家の家督を継ぐことになる。吉田家は山鹿流兵学師範の家なので、松陰は周防・長門の2か国を有する長州毛利家の防衛という重責が課せられたのである。そのため、松陰教育は実父と叔父の玉木文之進をはじめとする周囲の人日によってなされた。彼らの教育方針は極めて厳しいものだったと伝えられている。
幼少期から徹底した英才教育を受けた松陰は天保九(1838)年に、九歳にして実学教授見習いとして藩校の明倫館に出仕し、翌年には実際に山鹿流兵学を教授している。そして、あくる年の天保十一(1940)年に、わずか十一歳で、藩主の毛利敬親に対して山鹿素行の『武家全書」の「三戦」を進講した。

長崎・平戸遊学

嘉永三(1850)年の二十一歳の時、松陰は長崎・平戸に遊学するが、この時長崎で見たオランダ船により自身の信じていた和流砲術・伝統兵法の無力さを痛切に実感するのである。そして、長崎で「聖武記附録」という書物に出会う。アヘン戦争で奮闘した林則徐の友人に魏源というものがおり、敗戦の責任を取らされ追放された林から海外事情を収集した史料を託され、「聖武記」、「海国図志」という書物を著した。これらの著作では、アヘン戦争の敗因を海外情勢を理解していないことだとして論じており、新たなる国土防衛のあり方への展望が書かれている。「聖武記附録」は「聖武記」の内の「武事余記」と題された諸編を日本において翻訳し、これに「附録」の名を付け加えたものだ。この「武事余記」はアヘン戦争の反省を踏まえた魏源の戦術・戦略論に相当し、いうなればアヘン戦争を体験したものによる最新の兵学書と言ったものであった。

この平戸・長崎遊学を経て、自分が学んできた家学である山鹿流兵学が機能しないことを痛切に感じとり、圧倒的な実力を有する西洋兵学に根拠のない虚勢を張ることもできず、かといって、家学を捨て去ることもできない葛藤状態に陥るのだった。この状態を、

今、誠に旧に率はんと欲せば即ち時に随はざる能わず。何となれば即ち旧は固と時に随ひて立ちたるなり。かならずや時勢を観て、其の間に取捨斟酌して然る後旧得て率ふべきなり。若し徒だ之を墨守するを知りて、時勢を観て取捨斟酌する能わずんば、即ち徒法存すと雖も、其の実既に失せたり、旧豈に率ふべけんや。然らば即ち時に随ふは旧に率ふ所以なり。

平戸遊学以前の松陰は「外夷」を一過性のもの捉えていたが、兵学上の転向を経た後は「外夷」を自らに対する本質的な脅威としてとらえるようになった。しかしこの時点では、「何を何のために守るか」というところがまだ明確になっていなかった。

江戸への遊学

嘉永四(1851)年、松陰は参勤する藩主に従って江戸に入った。だが、江戸には彼の師となる人はいなかった。江戸の学者にとって学問は大義のためではなく、日々の糧を得るための手段でしかなかったからだ。また、江戸において兵学という学問の地位の低さも、松陰を煩悶させた。江戸においては経学すなわち儒学が学問の王道であるという認識が当時の知識人一般に広がっていた。

この煩悶から逃れるために、松陰は東北旅行を計画する。そして、藩の許可を得たのであるが、出発当日までに過書(通行手形)が間に合わなかったころから、脱藩してしまうことになる。脱藩した松陰は変名を用いて水戸に向かった。嘉永四年12月のことである。松陰は水戸に約一カ月ほど滞在し、水戸学者との交流の中から「皇国」を発見することになる。つまり、「外夷」対して守るべき存在としての「日本」である。

「聖天子、蛮夷を攝服するの雄略」こそが「皇国の皇国たるゆえん」

と書き記している。「海外諸国を服従させるような雄大なはかりごとを行うことこそが、日本が日本として存在できる根拠なのだ」と結論付けたのである。しかし、ここには天皇に対する直接的に崇拝は存在していない。

東北旅行のあと、松陰は萩に戻り脱藩の罪の処分を受けることになる。松陰は脱藩という行為のため「御家人召放」という処分を受けたが、藩主の内意を受け十年間の諸国遊学許可を得、嘉永六(1853)年再び江戸に向かうのであった。

侵略主義の攝服雄略から通商主義のの渡海雄略へ

松陰はみずからの膨張論を「雄略」という言葉で表現し、その雄略こそが日本を日本たらしめる方途であると主張した。こうした考えはペリー艦隊密航の罪で投ぜられた獄中において彼が著した「幽囚録」の中にも現れている。

日升らざれば即ち昃き、月盈たざれば即ち虧け、国隆んならざれば即ち替ふ。故に善く国を保つものは徒に其の有る所を失ふことなきのみならず、又其の無き所を増すことあり。今、急に武備を修め、艦略ぼ具は礟足らば、即ち宜しく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加・隩都加を奪ひ、琉球を諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからしめ、朝鮮を責めて質を納れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ、北は満州の地を割き、南は台湾・呂宋の諸島を収め、漸に進取の勢いを示すべし。然し後に民を愛し士を養ひ、慎みて辺圉を守らば、即ち善く国を保つと謂ふべし。

筆者はカムチャッカからルソンにいたるこれらのアジアの地域の多くが、当時主権国家の境界がいまだ明確に確定されていない、いわゆる辺境であったと指摘している。近代以前の帝国が自らの境界を明確にせず、その周辺に辺境を認めることで自らの文明の地平線を示したのだという。ただし、「無主の地」であっても「無人の地」ではないので、その地域に「進取の勢いを示す」ことは侵略そのものであることは紛れもないことである。

このよないわゆる膨張的侵略主義はやがて大きな変化を遂げて、航海雄略という考えに変わっていく。それは条約勅許問題が浮上していた安政五(1958)年頃のことだ。

凡そ皇国の士民たる者、公武に拘わらず、貴賤を問はず、推薦抜擢して軍帥舶司をなし、大鑑を打造して船軍を習練し、東北にしては蝦夷・唐太、西南にしては流虯・対馬、憧々往来して虚日あることなく、通漕捕鯨以って操舟を習ひ海勢を曉り、然る後、往いて朝鮮・満州及び清国を問ひ、然る後広東・咬𠺕吧・喜望峰・豪斯多辣理、皆館を設け将士を置き、以て四方のことを探聴し、且つ互市の利点を征る。此の事三年を過ぎずして略ぼ弁ぜん。然る後加理蒲璽尼亜を問ひ、以って前年の使いに酬い、以って和親の約を締ぶ。果たして能く是くの如くならば、国勢奮興、材俊振起、決して国体を失ふに至らず。

ここでは侵略ではなく通商活動による進出が述べられている。これは境界を確定すべき「辺境」から、諸国家がお互いに関係しあう「交易の場」への転換である。この「渡海雄略」論は鎖国にこだわる「天朝」に諫言ずるほどの確乎たる信念に基づいており、「航海通市の策を採用しなければ、勢屈し力縮みて、亡びるのみである」と主張する「対策一道」は、京都の梁川星巌を通じて天皇のもとに届けられている。

松陰の攘夷論

なぜ攘夷をするのかという部分であるが、松陰の攘夷論中華思想の夷狄に対するものではなかった。松陰がペリーを糾弾したのは、その強圧的な交渉態度が、古典的な「礼」に基づいた国家間の対等関係(「敵礼」)を損なっていたためであった。つまり、ペリーは無礼だったからである。

帝国とは

吉田松陰とは関係ないが、この本には帝国の定義について書かれていて、興味深かった。

帝国という言葉はオランダ語のケイゼルレイキに由来するが、ケイゼルレイキの語源であるラテン語インペリウム imperiumは、単一の支配者や政府によって支配されている国々や諸国家の総体を意味するものだった。なので、帝政に移行する前の共和政期のローマも、多くの属州を支配しているためにインペリウム・ロマヌム Imperium Romanumと呼ばれていた。同様に、その元首が国王であるにもかかわらず、イギリスをブリティッシュ・エンパイア British Empireと自他ともに呼ぶようになったのは、多くの植民地を支配していたからに他ならない。
ところが、「帝国」という言葉を作り出した日本においては、その国が多くの服属国を従えていると言った統治形態を示す語ではなく、その国の元首が皇帝であることをあらわす称号と理解されていった。