隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

戦国史の俗説を覆す

戦国史の俗説を覆すを読んだ。本書は比較的よく知られている定説が実は誤っていたということをまとめた本である。取り上げられているトピックは以下の通り。

老いた秀吉の誇大妄想が朝鮮出兵を引き起こしたのか

で紹介されているのだが、文禄役後の講和破たんの理由として、秀吉が日本国王にされた(冊封)ことに怒った件は、林羅山の「豊臣秀吉譜」の創作だというのが現在の通説となっているということだ。それを、幕末から明治にかけてよく読まれた頼山陽の「日本外史」が「秀吉は国書を引き裂いた」とまで誇張したという。

石田三成襲撃事件の真相とは

では、襲撃した七将は史料によって異なっているという。関原始末記では、池田輝政福島正則細川忠興浅野幸長黒田長政加藤清正加藤嘉明の七人になっているが、慶長四年閏三月五日付で出された家康文書(譜牒余録)のあて先は、細川忠興蜂須賀家政福島正則藤堂高虎黒田長政加藤清正浅野幸長となっている。どうやら後者の七人の方が妥当ということだ。また、襲撃の理由は蔚山城戦後処理の処分問題にあったとされているが、福島正則細川忠興慶長の役には従軍していないので、直接は関係がない。家康の家臣である大久保忠教が著した三河物語によると、家康の六男忠輝と政宗の長女五郎八姫との間の縁談が発端となり四大老五奉行が対立することになる。そして、利家と家康の和解をきっかけに、三成ひとりに責任を負わすような格好になったということだ。

家康は豊臣氏をどのように追い詰めたのか

には、関ヶ原の戦いの勝利の後覇権を握った家康であったが、諸大名に対する知行目録の発給を指示しながらも、最後まで自身での領知朱印状を出すことができず、領知を通じて彼らと主従関係を結ぶことができなかったと書かれている。それは秀吉政権下で発給された知行宛行状がまだ有効だったからで、その処理は片桐且元に委ねられていた。徳川将軍家が自由に諸大名に対して領知朱印状を発給できるようになったのは1617(元和三)年以降のことであり、その意味では大坂の陣は重要な事件であった。