戦国史の俗説を覆すを読んだ。本書は比較的よく知られている定説が実は誤っていたということをまとめた本である。取り上げられているトピックは以下の通り。
- 本当の鉄砲伝来はいつだったのか
- 川中島の戦いは何回行われたのか
- 信長の「天下」は日本全国を指すのか
- 明智光秀の出自は土岐氏なのか
- 本能寺の変の黒幕説(朝廷・足利義昭)は成り立つのか
- 「神君伊賀越え」の真相
- 中国大返し再考
- 城郭研究を揺るがした「杉山城問題」とは
- 老いた秀吉の誇大妄想が朝鮮出兵を引き起こしたのか
- 石田三成襲撃事件の真相とは
- 毛利輝元、吉川広家、安国寺恵瓊の関係と関ヶ原の戦い
- 徳川家康の「問鉄砲」は真実なのか
- 家康は豊臣氏をどのように追い詰めたのか
- 大坂冬の陣後、大坂城の堀は無理やり埋められたのか
- 忍者は実在するのか
老いた秀吉の誇大妄想が朝鮮出兵を引き起こしたのか
で紹介されているのだが、文禄役後の講和破たんの理由として、秀吉が日本国王にされた(冊封)ことに怒った件は、林羅山の「豊臣秀吉譜」の創作だというのが現在の通説となっているということだ。それを、幕末から明治にかけてよく読まれた頼山陽の「日本外史」が「秀吉は国書を引き裂いた」とまで誇張したという。
石田三成襲撃事件の真相とは
では、襲撃した七将は史料によって異なっているという。関原始末記では、池田輝政、福島正則、細川忠興、浅野幸長、黒田長政、加藤清正、加藤嘉明の七人になっているが、慶長四年閏三月五日付で出された家康文書(譜牒余録)のあて先は、細川忠興、蜂須賀家政、福島正則、藤堂高虎、黒田長政、加藤清正、浅野幸長となっている。どうやら後者の七人の方が妥当ということだ。また、襲撃の理由は蔚山城戦後処理の処分問題にあったとされているが、福島正則と細川忠興は慶長の役には従軍していないので、直接は関係がない。家康の家臣である大久保忠教が著した三河物語によると、家康の六男忠輝と政宗の長女五郎八姫との間の縁談が発端となり四大老と五奉行が対立することになる。そして、利家と家康の和解をきっかけに、三成ひとりに責任を負わすような格好になったということだ。