隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

司馬遼太郎が描かなかった幕末 松陰、龍馬、晋作の実像

一坂太郎氏の司馬遼太郎が描かなかった幕末 松陰、龍馬、晋作の実像を読んだ。実は私は司馬遼太郎の小説を読んだことがない。子供の頃は歴史小説とか時代小説に興味がなかったのと、ある程度年を取ってからは、読書に割ける時間が限られてしまって、長い小説を読む時間がとれなかったことが主な原因だと思うのだが、実はそれ以外に、司馬遼太郎はどうも人物を美化しすぎているのではないかということが、司馬小説の読書から遠ざかった最大の理由かもしれない。

もちろん作者が登場人物にほれ込まなければいい小説にはならないだろうが、過度に、しかも、扱っている人物が歴史上の人物であれば、過度の美化するのはどうなのだろうという気がしてしまうのだ。それと、どうも世の中には司馬遼太郎の書いた小説が歴史的な事実であると受け止めている人もいるようだが、あくまでも小説なので、作者のフィルターを通してのストーリーとなっているはずで、実際にはなかったことをあったように描かれていた場合、果たして何が歴史上の出来事なのかがわからなくなってしまう。そういう意味で最近は、更に実在の人物を扱った歴史小説というのは読みにくいというか、気が引けてしまう傾向にある。

本書はタイトルは「描かなかった」となっているが、司馬遼太郎が敢えてなのか、知らないからなのかわからないが、小説に書かなかったことを取り上げているだけでなく、実際にはない出来事で、小説の中だけのことについても触れられている。

山県太華吉田松陰の論争

安政二(1855)年九月から山県太華吉田松陰との間で始まった天皇をめぐる論争。松陰は将軍の任命権は天皇にあり、様々な爵位も店頭から出ている事実を挙げ、「天下は一人の天下なり」と言い、天下は全て天皇の物であると論じた。これに対して山県太華は刃部天皇以来天下を治めていた天皇家が保元・平治の乱で「君徳」を失い、鎌倉幕府に聖剣を奪われたので、「天下は一人の天下に非ず、天下の天下なり」と批判した。君徳を失えば、新しい王が変わるという孟子放伐論をを踏まえ、幕府という政権の正統性を主張する。しかし、松陰はそれは漢土の話であり、日本は神代の昔から天皇が絶対的な存在なのだという調子で反論する。

この二人の論争は「世に棲む日日」にも登場するらしいが、わずか二ページほどで、松陰が使った「天下は一人の天下なり」というような言葉は登場していないということだ。

テロリストとしての松陰

安政三(1856)年九月、松陰のテロのターゲットは大老井伊の指揮下、京都に乗り込み反対派弾圧に奔走する老中間部詮勝へとしぼられていく。松陰は十数名の門下生の同意を得るが、高杉晋作久坂玄瑞などの反対した門下生に対しては「僕は忠義をする積り、諸友は功業をなすつもり」と、激しい口調で絶交を申し込む。更に松陰は、小国融蔵に手紙を書き、「死を畏れざる少年三四輩、弊塾まで早々お遣わししかるべく」と依頼している。

「世に棲む日日」では松陰は間部暗殺を唱え、藩に武器を貸してほしいと希望するが、間もなく江戸に送られてしまうと書かれているらしい。とてもありのままには書けないような逸話であろう。もっとも、幕末の殺気立った世の中においては暗殺が実際に行われていたので、松陰だけが突出して過激な思想をもっていたということにはならないのかもしれないが、松下村塾を開いた松陰の教育者としての側面とは相容れない一面だろう。

徳富蘇峰と松陰と革命

明治二十六年徳富蘇峰が養子だ松陰の評伝をまとめた「吉田松陰」と発表するが、その中で松陰は革命家として扱われていた。しかし、この当時革命というのはタブーであった。というの「革命」は何度でも起きる可能性があるからだ。幕府を倒し権力の椅子に座った元勲たちに取り、第二第三の革命が起きることは不都合なことであった。だから自分たちがやったことは、日本を「王政復古」という本来あるべき姿に戻したにすぎず、革命ではないという風に考えたのだ。

徳富蘇峰の「吉田松陰」は元勲たちの圧力により、明治四十一年に全面的な改訂を余儀なくされる。改訂版からは「革命」の文字は全て削られ、「改革」という言葉に置き換えられた。

それを徳富蘇峰が最初に書いたように革命家を前面に押し出したのが「世に棲む日日」の吉田松陰ということらしい。

萩砲台工事と絹の着用

文久三(1862)年六月萩の菊が浜に台場を建造することになった。この作業にはあらゆる階層の老若男女が動員され、その数は多い日千一日一万数千人であったという。現在も幅十二メートル、長さ五十メートルほどの遺構の一部が史跡として保存されており、「女砲台」の名で知られる。外国艦砲撃のため下関に出征した男に変わり、武家の奥方たちが工事に出てきたのが目を引いたため、そう呼ばれるようになったという。

萩市史によると、藩は高次の士気を高めるため、それまでは厳禁していた絹類の着用を、工事参加の時に限り許可した。女たちは大喜びで箪笥の奥深くに秘蔵していた絹の着物に身を包み工事に参加したが、やがてエスカレートして、工事はファッションショーと化した。女たちは次々と絹の着物を新調して競い合った。あわてた藩は七月二十九日、絹類着用は持ち合わせのみで、新規にあつらえるのは不心得であるとの命を発した。さらに、萩の呉服屋にも、髪形から絹類を仕入れることを禁じている。

こうして、九月に入ると、菊が浜に長さ百から三百メートルの砲台が六ヶ所誕生したが、日本海に面した萩に外国船はなく、実際には使用されることがないまま「女砲台」はその役目を終えた。

下関彦島の租借

「世に棲む日日」では三回目の会談の席でイギリス艦司令長官クーパーが下関沖に浮かぶ彦島の租借を申し入れ、それを晋作が「古事記」「日本書紀」の講釈を行うことで煙に巻いて、あきらめさせたという場面がある。このエピソードは司馬遼太郎の創作というよりは古くからの講釈調の晋作伝にあるようだが、史料的根拠は一切ないようだ。そもそも、列強側は通航を邪魔されたので下関を砲撃したのであって、直接的な領土的野心を抱いてきたのではない。

高杉家の幕末~明治

高杉晋作は藩政府打倒を挙げて挙兵した。もし、晋作が破れて逆賊となれば、高杉家は取り潰されてしまう。そのため藩内戦中の慶応元年(1865年)一月十一日、父高杉小忠太藩士村上衛門常祐の三男半七郎を養子として高杉家に入れ、晋作を廃嫡した。そして、同年九月、藩命により晋作は谷家の当主潜蔵となった。藩は慶応三(1867)年三月、谷家に百石を与え、八組(馬廻り役・大役)に加えて、その功に報いた。

一方、高杉家の養子になった半七郎は、高杉春祺と名乗り、明治九(1876)年六月正式に高杉家の跡を継いだ。春祺の妻となったのが、三人いた晋作の妹の内の一番下のミツで、ミツは既に他家に嫁いでいたが、小忠太が離縁させて、春祺と再婚させた。