隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

藤原道長の日常生活

倉本一宏先生の 藤原道長の日常生活を読んだ。本書は狙いは、藤原道長の「御堂関白記」、藤原実資の「小右記」、藤原行成の「権記」の日記の内容をもとに藤原道長の実像に迫るというものである。

倉本先生は「一般に平安時代の貴族たち対する理解というのは、彼らが遊宴と恋愛のみに熱意を示し、毎日ぶらぶら過ごしていた」というものであろうと指摘する。しかし、これらのイメージは主に女流文学作品に登場する男性貴族たちの姿を実際の平安貴族の生活すべてだと誤解してるだけだという。女流文学作品の作者の女性にとっては、貴族が夜になると自分たちのいる場所に遊びに来る姿しか知らず、また、作品の主な読者層の女性も政務や儀式や政権抗争、皇位継承のありようなどにはさほど興味がないので、そのような物語は好まれなかったためのようである。だが、実際平安貴族たちは非常に忙しかったというのだ。

御堂関白記とは

現存する「御堂関白記」は長徳四(999)年から治安元(1021)年まで、道長が三十三歳から五十六歳までの記事を収めている。もともとは一年分を春夏の上と秋冬の下の二巻からなる具注歴に記した歴記が三十六巻存在していたと考えられている。道長陰陽師が干支や日の吉兆などの歴注を注記した具注歴の日付と日付の間の二行の空白部(間明き)に日記を記していた。通常は三行から四行記す場合が多いが、表に書ききれなかった場合(和歌や儀式への出席者や賜録の明細など)は裏書として紙背に記載した。道長は自己の日記を後世に伝えるべき先例としてではなく、自分自身のための忘備録として認識していたようだ。それは装丁も当時のまま残る寛弘七年歴上の見返しに「件の記等、披露すべきに非ず。早く破却すべき者なり」と書きつけていることから分かる。にもかかわらず、「御堂関白記」は摂関家の最高の宝物として大切に保存された。そして、中世前期に摂関家近衛家九条家に分立した際に、「御堂関白記」も分割された。現在近衛家の陽明文庫には自筆本十四巻が保存されている。

平安時代後期孫の藤原師実の時に一年分一巻からなる古写本十六巻が作られた。現在陽明文庫に十二巻所蔵されている。また、平安時代後期におそらく師実により抄出された「御堂御記抄」七種が作られた。

先例主義

当時は儀式を先例通り執り行うことが最重要課題であったのだが、そのために深夜まで続く儀式の遂行や形式的な会議に膨大なエネルギーを注いでいたというのだ。この時代、太政官の政務手続であった政と定は、それぞれ、朝政・旬政・官政・外記政、御前定・殿上定・陣定と別れており、定の中でも実質的な意義を有していたのは陣定で、月に二、三回開かれていおり、国政全般に関して討議されていた。例えば、寛弘八年正月五日の叙位の儀では、冝陽殿に議所を設置した際、南を上座として対面した座であった。道長は「大臣は北面するのではないか」と疑問を呈し、頼光も同調して「大臣の座があるべきである」と主張した。公卿たちは、「そのような座はありません」と応じ、数剋、この議論を行ったとある。一剋は二時間である。装束司を召して問うたところ、「装束記には北面する座は見えませんでした」と言ったので、道長は不審に思いながらも衆人の意見に従って、着座した(御堂関白記)。このような議論に数時間を費やしていたのであるから、推して知るべしである。

右・左と相撲節会

相撲節会(毎年七月、宮廷において諸国より徴した相撲人が行う相撲を天皇が観覧する儀式)をはじめとして、左右に分かれて勝敗を争う儀式においては、常に左側が勝っているというのだ。

道長の曽祖父の忠平の「貞信公記」に天慶九(946)年七月二十八日に右方が勝ったのに天判(天皇の判定)が入り、左方の勝になったとある。また、「江家次第」裏書に、「諺に言うには左方を帝王方とする」とあるし、「江家次第」本文にも「古から帝王は左方に気持ちがないわけではない」とある。

なお、当時の相撲は、土俵も制限時間もない上に、撲る、蹴る、締める、果ては相手の背中を木に押し付けることが許されるような格闘技であり、しかも判定勝負だった。そのため、天判が入り込む余地があったようだ。

「この世をば」の歌の経緯

あの有名な「この世をば」の歌が詠まれたのは、寛仁二年十月十六日の威子立后の本宮の儀の穏座であった。御堂関白記には「私は歌を詠んだ。人々は、この和歌を詠唱した」としか記されていないが、実資が珍しくこの宴に参加しており、この歌を記録した小右記の記事が散逸せずに広本(写本で、省略せずに原本を多く伝えている)で残っていたおかげの様である。

道長の家族

源倫子

平安貴族は妻問婚による一夫多妻と考えられているが、実際は彼らは嫡妻と同居していた(実際は女性の実家に婿入りしていた)のであり、一時期に妻は一人しかいなかった貴族も多い。道長も正式な妻は源倫子と源明子しか確認できない。

源倫子は道長より二歳年上で、左大臣源雅信の長女で、宇多天皇の三世孫にあたる。結婚したのは永延元(987)年十二月十六日とされる(小右記)。道長二十二歳、倫子二十四歳の時なので、晩婚である。

倫子は永延二(988)年に彰子、正歴三(992)年に頼通、正歴五年に妍子、長徳二(996)年に教道、長保元(999)年威子、寛弘四(1007)年に嬉子を生んでいる。

倫子の位階は寛弘五(1016)年従一位となり、その時道長以下の公卿は最高位が正二位であった。治安元(1021)年に出家し、天喜元(1053)年九十歳で薨去した。

源明子

源明子は醍醐天皇の孫で、父は左大臣源高明。安和二(969)年、明子が五歳の時に高明が太宰権帥に左遷された(安和の変)。明子は叔父の盛明親王に養われ、盛明死後は詮子に引き取られた。道長との結婚は、倫子の結婚の少し後と思われる。年齢は道長より一歳年上である。

明子は、正歴四(993)年に頼宗、正歴五年に顕信、長徳元(995)年に能信、長保元(999)年に寛子、長保五年に尊子、寛弘二(1005)年に長家を生んだ。倫子所生の子女とは異なり、頼宗が右大臣に上がった以外は、顕信は右馬頭になった後に出家、能信と長家は権大納言止まりである。また、寛子が東宮を降りた敦明親王の女御、尊子が源師房室となっている。これは明らかに倫子所生の子女と差異がある。このためか、能信を中心とする明子所生の道長の子息が、頼通・教道と対立し、摂関家を生母に持たない崇仁親王(後の後三条天皇)の即位に尽力して、倫子腹の摂関家の権力を失墜させることになる

彰子

彰子は道長の最初の子であった。長保元年(999)二月九日、彰子は着裳の式を迎えた。数えで十二歳。道長の入内工作の結果、一条天皇は彰子を女御にするという宣旨を十一月七日に下した。寛弘四(1007)年ようやく彰子は懐妊したが、そのことは厳密に秘された。なぜなら、外に漏れて呪詛されることを恐れたからだ。寛弘五年九月十一日、「御物怪がくやしがってわめきたてたる声などの何と気味悪いことよ」(紫式部日記)という状況の中、第二皇子敦成を出産した。寛弘六年二月彰子は再び懐妊し、十一月二十五日第三皇子敦良を出産した。

寛弘八年五月二十二日、一条天皇は病に倒れた。道長は早速譲位工作を開始し、一条天皇に第一皇子の敦康立太子をあきらめさせ、敦成立太子を実現させた。敦康に同情し、一条の意を体していた彰子は、その意志が道長に無視され、「丞相を怨み奉られた」(権記)という。六月十三日に一条が譲位し、三条天皇践祚した。

長和五(1017)年正月二十九日、いよいよ敦成が即位し(後一条天皇)、彰子は国母となった。寛仁元(1017)年八月六日、三条皇子の敦明親王東宮に地位を降りるということを希望し、道長は新東宮に敦良をたてている。

彰子は寛仁二(1018)年に太皇太后宮となり、万寿三(1026)年に落飾入道(髪をそり下ろして仏門に入ること)し、上東院の称号を受けた二人目の女院となった。そして、承保元(1074)年十月三日、道長と同じ法成寺阿弥陀堂において崩じた。八十七歳であった。

妍子

道長次女の妍子が生まれたのは正歴五(994)年三月のことだった。長保五(1003)年二月二十日に十歳で着裳、寛弘元(1004)年十一月二十七日に尚侍に任じられた。寛弘七(1011)年二月二十日、妍子は居貞の妃となった。妍子は当時十七歳、居貞親王三十五歳であった。

寛弘八年に居貞が即位し(三条天皇)、三条は妍子に女御宣下を下した。だたし、四人の皇子を生んでいながら後見のいない娍子も同時であった。長和元(1012)年正月三日、妍子を立后せよと三条の宣旨が道長にもたらされ、二月十四日立后の儀が行われた。しかし、三月に娍子を皇后に立てるという、道長にすればとんでもない提案が三条からもたらされた。道長は娍子立后の地と決まっている四月二十七日に、妍子の内裏参入させる床に決定した。妍子の内裏参入前後に競演が続けば、娍子立后の儀式に参列する公卿や官人が減ることを見越した作戦である。そのため、娍子立后の儀に参列した公卿はわずか四人だったという(小右記)。

妍子は長和二年七月六日に禎子を出産した。禎子は敦良親王(後朱雀天皇)の中宮として尊仁親王(後三条天皇)を生んだ皇女である。皇女が生まれたことで、道長は「悦ばない様子が、甚だ露わであった」ということだ。報せを受けた実資は「女が生まれたことによるのであろうか。これは天のなすところであって、人事はどうしようもない」と記している(小右記)。

この後妍子は皇子を生むことがなく、そのため三条天皇に続く冷泉系の皇統は閉ざされることになる。万寿四(1027)年四月、妍子は病悩し、九月十四日に出家した後崩じた。三十四歳であった。

威子

道長三女の意思は長保元(999)年十二月二十三日に生まれた。長和元(1012)年八月二十一日尚侍に任じられ、十月二十日に着裳の儀を迎えた。寛仁二(1018)年三
月七日、二十歳の威子は十一歳の敦成親王(後一条天皇)に入内し、四月二十八日女御となり、十月十六日に立后が行われた。

九歳年下の後一条の中宮に、伯母にあたる威子が立つというのは、いかにも不自然で、結局威子は章子内親王・磬子内親王という二人の皇女しか残すことができず、皇統は敦良親王(後朱雀天皇)の子孫に伝えられた。そして、長元九(1036)年九月六日、四月に崩御した後一条に続いて、三十八歳で威子も崩じた。

嬉子

嬉子は倫子所生として四女で、寛弘四(1007)年正月五日、倫子四十四歳の時の子として誕生した。寛仁二(1018)年十一月十五日尚侍に任じられ、寛仁三年二月二十八日に着裳の儀を迎える。

治安元(1021)年二月一日、頼通の養女として、東宮敦良親王の妃となった。嬉子十五歳、敦良十三歳。万寿二(1025)年八月三日に十九歳で親仁親王(のちの後冷泉天皇)を出産するが、五日後に薨去してしまった。

皇統は敦良親王(後朱雀天皇)ー親仁親王(後冷泉天皇)と繋がるが、この後は三条皇女の禎子と敦良親王の間に生まれた尊仁親王(後三条天皇)、更には藤原公季の子孫である茂子と後三条天皇の間に生まれた白河天皇によって継承されていった。

摂関政治とは、摂政・関白という名前がついてはいるが、その地位・身分自体は重要ではなく、天皇の外祖父になることが重要であった。こうして藤原摂関家を外祖父に持たない天皇が誕生することにより、摂関政治の時代は終焉を迎えることとなる。