隠居日録

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2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

あだ名で読む中世史

岡地稔氏のあだ名で読む中世史を読んだ。タイトルから内容を「めずらしかったり、面白いあだ名がついている王侯貴族を切り口にして、中世の歴史を概観するような内容だろう」と勝手に想像して、読み始めたのだが、全然違った。本書はなぜヨーロッパに「あだ名がついている王侯貴族がいるのか?」という謎に迫る内容だ。

本書で扱われている地理的な範囲ははフランク王国を中心にしており、その後のフランスやドイツが主な対象になっている。たしかにヨーロッパの歴史ではあだ名で呼ばれている王が多いという印象は受ける。だが、なぜそうなっているのかというのは今まであまり気にしたことはなかったが、本書を読んでなるほどと思った。

どうやら、ヨーロッパであだ名が付けられるようになったのはメロヴィング朝からカロリング朝にかけての頃の人々に対してで、しかもカロリング朝以降の時代(九世紀末から十世紀初め)の人たちがメロヴィング朝からカロリング朝の時代の人々をあだ名で呼んだというのだ。そもそもカロリング朝とかカロリング家と言われている「カロリング」とは姓ではなく、「カール達」を意味する言葉であり、カール大帝の一族ということをあらわすために用いられてもので、いわゆる「カロリング家」の人々が用いたものではないという。なぜなら、もともとゲルマン系の人々は姓というものがなく、個人名しか持っていなかったのだ。

その状況に転換点が訪れる。十一世紀の半ばぐらいから「~ de ~」というような表記が名前にみられるようになるのだ。この「de」はラテン語の前置詞で、「~の」を意味する。フランス語では同じつづりの「de」、ドイツ語では「von」、英語では「of」に相当する。「de」の前の部分は個人名であるが、後ろの部分は「城砦」の名前なのだ。当時のヨーロッパは封建社会全盛の時期であるが、一方で権力の細分化が進んだ時期でもあった。各地で統一的な中央集権力を欠くという状況で、自立した貴族・城主たちに自意識が高まり、紋章の創出・使用が始まった。そして、それが子や一族に継承され、一族をあらわすものという意識が強くなっていった。当初は中クラスの貴族により用いられた「どこぞこ城のだれそれ」という形態は次第に高位の貴族にも広まり、十二・三世紀の頃には一般にも広がっていった。

ここで、この「de」にあたる英語の「of」が英語の名前には見られないという面白い状況が発生している。これはなぜかというと、1066年のノルマン征服が影響しているという。1066年のノルマン征服により、イギリスの言語が上流階級はフランス語に置き換わったからだ。彼らが自分たちをあらわすのに、わざわざ英語の「of」を使うわけはないので、英語の名前には「of」が見られないのだ。アイルランド系の人たちに見られる「O'」はゲール語の「ó」であり、「孫」や「子孫」をあらわしているので、「of」の短縮形ではない。

ゲルマン系の人々の名前(個人名)は二つの要素から構成されていた。例えばジークフリートではジーク(勝利)+フリート(平和)からなる。また、アルヌルフはアルン(鷲)+ウルフ(狼)。そして、通常、命名法は両親を含む親族の誰か二人から前半部分と後半部分を取ってきて、それを組み合わせて命名していた。ところが八から九世紀ごろになると、貴族の間で別の命名方法が主流となっていく。それは生まれた子供に親族の誰かの名前をそのまま付けるというものだった。この命名方法をとると同じ名前が一族の間で繰り返し使われることになり、名前からだけではいったい誰なのかの特定が非常に難しくなるのだ。前期中世の人たちは姓がなかった。個人名しかなかったので、子供に親族に当たる誰かの名前にちなんで命名することで、子供がどのような親族集団に属しているかを明確にしようとしたというのが、この命名方法の動機らしい。

名前からだけではいったい誰なのかの特定が非常に難しので、何らかの方法により個人を識別する必要性が高まってきた。一つの方法として「世」を用いるという方法もあるのだが、これも一筋縄ではいかない。例えば「ハインリッヒ三世」は当初「国王ハインリッヒ三世」と自称していたが、後に「皇帝ハインリッヒ二世」と自称している。本書には頭が痛くなるようなこの「~世」の説明が数ページにわたってされているのだが、はっきり言って専門家ではないと覚えられないし、覚える気力もない。ただ、「~世」では一意に決定しようと思うと多大な努力を擁すし、お互いの共通認識が必要になるのだ。そこで、この当時からあだ名を用いることにより個人を特定しようとした動機づけになった。