隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

侍の本分

佐藤雅美氏の侍の本分を読んだ。本作は小説なのだろうと思って読み始めたのだが、小説というわけではなく、大久保彦左衛門が書き残した三河物語を、寛政年間に幕府が編纂した寛政重修諸家譜なども参照しながら、著者の視点で読み解くという構成になっている。

大久保彦左衛門の名前も、彦左衛門が書き残した三河物語の名前も知っていたが、その人物なり書物なりについては全然知らなかった。大久保彦左衛門と言えば「天下のご意見番」というイメージがあるのだが、どうもそれも後世の人たちが作り上げたイメージなのだろう。

彦左衛門には男兄弟が十人いて、彦左衛門忠教は八男だった。長兄の七郎衛門忠世の功績は目覚ましく、小田原で四万五千石を取る大名だった。忠世の死後は嫡男の忠隣が後を継いだ。しかし、大坂の陣の直後に改易され、近江で蟄居させられた。改易の理由は定かではく、何があったのか不思議だ。

次兄の治右衛門忠佐も沼津で二万石を領していた。慶長十八(1613)年、忠隣が改易される前年、忠佐に嗣子がないということで、彦左衛門忠教を養子にして後を継がせようという話が持ち上がり、どうだろうと持ち掛けれれて、彦左衛門忠教はこういった。
「他人が働いて得た地行を、棚から牡丹餅のようにいただくつもりは毛頭ありません」
この辺りの発言は彦左衛門の性格をよく表していると思う。その答えのためこの話は流れた。そのころ彦左衛門は忠隣から埼玉郡で二千石を与えられていた。忠隣が改易されたので、この二千石は無くなった。

可哀想に思ったのか、家康は彦左衛門を駿府に呼び、直参に取立て、大久保一族の本貫地三河額田郡で千石与えると言った。大久保の十人の兄弟の内、徳川家に仕えたものは八人であったが、忠隣が改易されたので、生き残っているものの扶持を合わせても五千石に持たない石高しかなくなってしまった。大久保家が徳川家に臣従したのは彦左衛門の四代前の泰昌であり、譜代としては長く使えているのにもかかわらず、これだけの禄しか得られていないのだ。それには、功績がなかったということもあろうが(実際彦左衛門の軍働きは、第一次植田合戦から大坂の陣まで無いようだ)、どうもその事の恨みつらみもあり、三河物語を記した動機の一つになっているのではないかと思ってしまった。

彦左衛門は、家康、秀忠亡き後の家光には気に入られたようで、昔話をせがまれていたようである。そんなところも、「天下のご意見番」のイメージをつくるもとになったのかもしれない。