隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

大江戸商い白書――数量分析が解き明かす商人の真実

山室恭子氏の大江戸商い白書――数量分析が解き明かす商人の真実を読んだ。ここで報告されている分析はなかなか興味深い研究だ。江戸時代の文書・史料は偏って残っているので、わかることと分からないことの差が大きい。この研究はその差を何とか埋めようとする試みだ。

江戸の人口分布の推計

史料の偏りの一つが、江戸の町の人口分布だ。人口自体は残っているのだが、ではどの町にどれくらいの人が住んでいたかのという人口総計のもとになるデータは残されていない。そこで筆者はそれを推定するために、「市中髪結い沽券金高取調書」という文書を用いた。幕末の嘉永四(1851)年七月にそれまで禁止されていた商人の同業者組合の再興が許可されることになり、その時に商売の実態や権利関係について詳細な調査が行われた。この「市中髪結い沽券金高取調書」はその調査報告の中の文書で、髪結いの組合四十八組に属する髪結い達が個々の保有する沽券状の額面の総計を列記したもので、沽券状の枚数は九百五十二通、総額面二十九万六千九百七十五両二朱で、一枚当たりの平均は三百両ほどだ。これとは別に、髪結い床持主惣代上申書で髪結いの料金が町奉行所に報告されており、1回二十文、一か月十五度結が三百文、一か月六度結が百文となっている。料金は江戸市中で均一なのだ。だが、沽券状の値段は場所によって違っており、例えば小網町の沽券状の総額は1788両で、霊巌島の組のそれは5107両で、約三倍違う。筆者は、これは小網町の髪結いが霊巌島の髪結いより三倍の売り上げがったのだろうと推測する。つまり、髪結いの料金は江戸で均一なので、江戸の町人はどこに行っても同じだ。小網町の髪結いの方が三倍の収入が見込まれるということは、小網町の方が人口が三倍多いのだろうという推測だ。このような考えをもとに、髪結いの沽券状のデータから江戸の人口分布を推計するのだ。髪結いの沽券状の金額を人口の代理変数としたのだ。

これをもとに計算すると、日本橋北 13.4万人、日本橋南 12.4万人と江戸の人口の半分近くがこのエリアに住んでいることになり、次に芝愛宕下 3.4万人、今戸箕輪浅草 3万人、下谷 2.9万人、小石川 2.7万人、浅草蔵前 2.7万人という風になっている。

江戸商家・商人名データ総覧

山室氏が次に着目したのが2010年に柊風舎から出版された「江戸商家・商人名データ総覧」という史料だ。これは七万四千件という膨大なデータが収録されており、江戸の町で活動した商人について145種類の名簿を蒐集して、屋号、名前、住所、業種、年次、わかる場合は株の移動について記載されている。このうち屋号の伊勢屋(データ件数一位)、万屋(データ件数二位)、越後屋(データ件数六位)を分析対象として選定した。これらの三屋号で全体の12.3パーセントに達するボリュームである。

これらのデータを集計すると、江戸での屋号の存続年数は平均15.7年というかなり短いことが分かった。しかし、これは業種で見るとかならばらつきがり、石灰等仲買や札差は50年を超えいる一方、舂米屋ではわずか8年となっている。また、株の譲渡は半分が非血縁となっており、意外と子孫に事業を継承するというよりは権利を第三者に売却する場合が多いことが分かった。

また、業種の件数としては炭薪仲買と舂米屋の件数が多いことがわかった。さらなる分析によると、これらの商売は広く江戸市中に分布しており、利益率も低いことが推定され、また参入障壁も低いことが考察されている。そのために事業の継続年数も低くなっているのではないかと結論付けている。

この資料を使った分析は、本書の二章から四章にわたって行われており、その分析は非常に興味深い内容になっている。山室氏がなぜこのような分析を行ったかというと、従来の江戸の商家の分析は文書が大量に残されている三井家を中心に行われてきたが、三井家が江戸の商家を代表しているわけではないので、別の角度からの研究が必要と考えていた。そのためには数量分析の手法が有効であり、史料を探していて、上記の史料に巡り合ったということらしい。