隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

映画術 その演出はなぜ心をつかむのか

塩田明彦監督の映画術 その演出はなぜ心をつかむのかを読んだ。本書は2012年に映画美術学校アクターズ・コースの学生向けに行われた講義を文書化して一冊にまとめたものだ。あとがきを読むと、塩田監督は当初「映画の演出」について講義しようと思っていたのだが、事務局への説明不足のために、「映画の演技」について講義すると、誤って学生に伝わってしまったために、準備していたものを破棄し、「演技と演出の出会う場所から映画を再考する」という内容に変わったそうだ。講義は7回にわたって行われ、各講義の採録には以下のタイトルが付けられている。

  1. 動線
  2. 視線と表情
  3. 動き
  4. 古典ハリウッド映画
  5. 音楽
  6. ジョン・カサヴェテス神代辰巳

なんとなくわかっている(いた)のだが、映画の特徴は当然ながら画面があり、セリフがあり、音楽があるというところなのだろうが、私は映画を見ている時には、そこからどのようなストーリーになっているのか、という部分を抽出して、とらえているのだということに改めて気づかされた。今まで見た映画の特徴的なシーンというのはなんとなく頭に残っているような気がしていたのだが、改めて思い出そうとしても、画面としてイメージとして正確には思い出せないということに気付いてしまった。そういう意味では、画面は目の上を流れて行き、セリフと合わさってストーリーとして記憶に残っているような気がする。そのストーリーも時間がたつとあいまいになっていってしまうのではあるが。

動線

映画を作る側としては、当然画面が重要で、最初の「動線」の所の説明が面白かった。こちらとあちらの境界を示すために、建物の構造、襖のこちら側とあちら側になぞらえるとか、橋を渡る・渡らないで境界を作るとかの話は興味深い。

そして、二番目の「顔」。この中でヒッチコックのサイコを取り上げている。この映画も今まで数回見ていて、最初観たときの衝撃はいまだに忘れられない。だが、今回この本を読んで、ヴィデオをひっぱり出して、改めて映画を見直したが、細かいストーリーや印象的なシーンに関しては、あまり記憶に残っていなかった。本書でも取り上げられている、ノーマーン・ベイツの不自然なほどに傾いたアングルの顔のアップもその一つで、塩田監督はこれは鳥をあらわしているのではないかと言っている。

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サイコ1

勿論本当の所は、よく判らない。この映画は全体的に極端な陰影が多く、この顔のシーンもその一つで、この不自然なアングルが何か不安なものを感じさせる。それと、私立探偵がベイツ邸に調べに来るところで、カメラが天井に張り付いているシーンと、私立探偵が襲われて階段を滑り落ちていくところも印象的なシーンだ。

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サイコ2
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サイコ3

カメラが天井に張り付くのは本当の犯人が誰だかわからなくするためなのだが、その前の辺りから俯瞰のアングルにして、犯人を隠すためという監督の意図を隠ぺいしている。天井にカメラが張り付くのはもう一シーンある。ここでも、老母の姿をはっきり見せたくない意図を、その前の所からの長廻しのシーンで隠蔽しているのだ。

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サイコ4

それと、最後の所のノーマンの顔のシーン。本当に一瞬しか見えなくて、なんとなく不気味だったという記憶しかなかったのだが、

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サイコ5

塩田監督はノーマンの顔に骸骨をだぶらせているというのだ。本書に載っている写真はもっとはっきりわかるのだが、私の持っていたヴィデオでは何かあるぐらいにしか見えない。でも、何とも言えない不気味な顔になっている。

実は全く記憶に残っていなかったのだが、1998年にサイコのリメークが制作され、公開されており、そのリメーク版とオリジナルとの比較も行われている。マリオンがベイツ・モーテルに辿りついて、事務所の応接室でサンドイッチを食べながらノーマンと話すところのシーンの比較が興味深い。マリオン役のジャネット・リーが、自分がどのような状況に置かれているのかを自覚し、内面の動揺を相手にできるだけ悟られないようにしているように、あえて視線を逸らせず、無表情に演技しているところが、状況の緊迫感がより伝わってくると解説しているのだ。

視線と表情

続く「視線と表情」では「許されざる者」が取り上げられている。この映画は慥か3年ぐらい前に見た。そして2年ぐらい前にNHKBSプレミアムで放送されていたので再び録画していたものをようやく今回を機に見返してみた。本書で取り上げられているのは、ウィル(クリントイーストウッド)がネッド(モーガンフリーマン)を訪ねてきて、「あのスペンサーライフルは今も使っているのか?」と質問し、ネッドが一切振り向かず(ネッドのすぐ後ろの壁にライフルがかかっている)、「今でも鳥の目を打ち抜ける」を言い返すところ。

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許されざる者

塩田監督は「彼とライフルの結びつきは、振り向きもしないほど強いことがわかります」と書いているが、実はこれは違うのではないかと、今回映画を見直して思った。というのも、ネッドは賞金首を襲うところで、ライフルが打てなくなり、代理の敵討ちから降りてしまうのだ。だから、本当は強いつながりなど全然なく、ライフルなど「本当は見たくもない物」だったのではないかと思った。

古典ハリウッド映画

塩田監督はここで「 あえて描かなかったことによってより多くのことを描ける」と書いている。この事は小説でも共通していることで、あえてすべて描かないことにより、作品に余韻を残し、見ている人・読んでいる人にあえて描かれなかったところを想像させることにより、より深みが湧いてくるのだと思う。ただ、映画の場合は、どうしても見ている人は受け身になっているので、自分の思考と画面上で展開しているストーリーにどう折り合いをつけるかという問題が発生する。ヴィデオならば一時停止することもできるが、映画館ではそんなことは不可能で、考えているうちにも、画面はどんどん流れて行って、わけがわからなくなる可能性もあるだろう。それを解決するために、映画にはあまりストーリーに関係ない風景などを挿入して、視聴者に考える時間を与えている場合もあるのだろうなぁと感じた。