本郷和人先生の上皇の日本史を読んだ。本書では時それぞれの上皇のありようを大和時代の大王の時代から明治維新までのタイムスケールで解説している。
「地位」が先か、「人」が先か
これはまえがきに書かれているのだが、日本においては「世襲」の概念が強固で、世襲の概念の後押ししているのが「人」を重視しているからというのだ。人を正当化するのが、血統であり、家柄だ。大きな権限を作り上げてきた「人」だから、しかるべき「地位」を選び取るという考え方だ。この考えは言われてみるとなるほどだし、だからその地位を退いても、前の天皇であったり、前の将軍であったりすると、今の天皇より上、将軍より上という奇妙な状態が出来上がってしまうのだ。言って見れば、日本人の中にあるこの奇妙な感覚・風習が上皇というシステムを可能にしたのかもしれないと思い至った。
院、天皇、上皇
2019年5月8日放送のNHK BSプレミアムの英雄たちの選択を見ていたら、幕末に出版された雲上明覧大全によると六十三代から冷泉院と「院」と書かれおり、百二十代から光格天皇と「天皇」に戻っているという。本書でも「院」=「上皇」ではないと書かれていて、この点は知らなかったし、興味深いところだ。本書では、「院」という呼称はやめて「天皇」とお呼びしようと決まったのは、大正末年の「臨時御歴代史実考査委員会」の議を経ての事だったと書かれている。
摂関政治から院政へ
多分史料がないので、誰も断定的な説明ができないのだと思うが、なぜ白河上皇が院政をはじめたのかの理由として、これだというのはズバリと書かれていないが、以下のような状況にあったのは慥かであろう。
院政時代の貴族昇進モデル
13世紀ごろの貴族の昇進モデルの説明があり、面白かったのでメモしておく。貴族は上級貴族・中級貴族・下級官人に分かれており、下級官人が今でいう官僚に相当する。下級官人と中級貴族の間には越えられない壁がある。中級家族と上級貴族には昇進のスピードの違いがあり、中級貴族以上の子弟は、15歳前後で最初に得る位階は従五位下で、そこから昇進し、中納言まで。下級官人は六位、七位という位階で一生を終える。また、中級貴族は蔵人・弁官という実務を執り行う官職につくが、上級貴族は近衛少将・中将という武官(といっても平安時代の停滞の中で形骸化している)になる。そして、近衛少将・中将には職務上の実態は無く、儀式のときに進行を見守るぐらいしかない。上級貴族は昇進が速く、運が良ければ太政大臣まで昇進できる。