刑部芳則氏の公家たちの幕末維新を読んだ。幕末から明治維新、明治政府の成立過程を公家の視点から描写したのが本書である。
公家たちの秩序
序章として、公家たちの秩序、まず家格が説明されている。摂家とか清華家というのは色々なところで見聞きするが、今一つ自分の中で整理されていなかったのが、この部分を読んですっきりした。公家には摂家(一条、九条、近衛、鷹司、二条)、清華家(大炊御門、花山院、菊亭(今出川)、久我、西園寺、三条、醍醐、徳大寺、広幡)、大臣家(嵯峨(正親町三条)、三条西、中院)、羽林家(64家)、名家(28家)、半家(28家)という序列がある。摂家、清華家、大臣家は朝廷内の上層部に位置し、他の公家とは一線を画している。その下に羽林家、名家、半家とありこの三家は同格で、俗に平堂上と呼ばれ、羽林家は近衛中将、少将などの官職につける武家の家(といっても名ばかりだ)、名家は文官の家、半家はどちらでもない「中途半ばの家」という意味だという。
外国船来航に関する奏文
弘化三(1846)年8月29日、外国船来航に不安を感じた孝明天皇は、幕府に御沙汰書(天皇の指示・命令)を下し、近年外国船が来航するようになったという噂を耳にするが「神州」に疵がつかないように適切の対応することを求めた。 また、文化4(1807)年にロシア船が来航した際には朝廷に報告したが、今後もそのようにしてもらえると安心すると付け加えた。これを受けて幕府は10月3日に禁裏附明智茂正を通してビッドル来航に関する詳細を天皇に伝えさせている。以降も幕府は、外国船が来航すると、その情報を天皇に伝えるようになる。
本書を読んでいて、どうもこの辺りが幕府が朝廷に外国船の取り扱いを報告し、その是非について伺いを立てるようになった転換時期ではないかと思った。以前の幕府ならばわざわざ朝廷に是非をうかがう必要もないし、そのような行為は朝廷の権力を増すだけで、幕府にとっては何の益もないこととみなしたはずなのに、全く不思議なことだ。
戊午の密勅
いわゆる、安政5(1858)年6月19日に調印された日米修好通商条約に関して、(1)幕府への詰問、(2)幕政改革、(3)外侮の防御を図らせることを目的に、水戸藩に8月8日に指示する勅書(勅諚)を直接下賜した事件であであるが、「密勅」と言われるのは、幕府へではなく水戸藩に先に渡していたからだと思っていたのだが、そうではなく、関白九条尚忠不在の朝議で、左大臣近衛忠熙、右大臣鷹司輔煕、内大臣一条忠香、前内大臣三条実万の4人が決定したという、正規の手続きを踏んでいないことに由来するという。関白九条は文面が厳しすぎること、水戸藩へという前例がないことを理由に反対していたが、孤立したために反対をあきらめたという。
公武合体
徳川家茂の正室に皇女を迎えることを最初に朝廷に相談したのは安政五(1858)年八月の彦根藩士の長野主膳であったようだ。長野主膳は井伊直弼の片腕的存在で、関白九条尚忠の家臣島田左近に相談した。当時皇女としては仁孝天皇の皇女である敏宮(ときのみや)と和宮、孝明天皇の皇女の富貴宮の三人がいた。当時家茂は12歳であるのに、敏宮は29歳、富貴宮は一歳に満たない幼児、和宮は10歳であったが、既に有栖川熾仁親王と婚約していた。そのため適切な婚約相手がいなかったが、当初は富貴宮が対象となっていた。それが、同年10月に左大臣近衛忠熙と京都所司代酒井忠義が前内大臣三条万実を交えて会談した際、「和宮の降嫁は有栖川宮との婚約が無ければ実現できないこともない」と近衛が言ったことから、酒井は有栖川宮との婚姻が破談になれば、実現するかもしれないという感触を得ていた。しかし、安政の大獄により、近衛も三条も失脚し、和宮降嫁の動きは見られなくなる。しかし、安政六年八月富貴宮が薨去すると、関白九条尚忠は井伊に和宮降嫁を改めて求めた。
当初孝明天皇は和宮降嫁には反対していた。というのも和宮自身が望んでいなかったからだが、岩倉具視の「外交問題や国内の重大事件については奏聞させるさせるようにすればよい。幕府に条約破棄を命じ、それに承諾したら、降嫁を聴許すればよい」という意見を受け入れて、幕府に外交方針を提示するように求めた。そして、万延元(1860)年7月29日に「通商条約の締結を余儀なくされたが、誰もそれを快くは思っていない。したがって武備充実につとめ、七、八年から十年の間に外交交渉によって和親条約まで引き戻すか、または戦争を行う」と期限付きでの攘夷を約束してしまった。これを受けて、和宮降嫁が決定した。
攘夷とは何だったのか
本書を読む前は「攘夷」というのは「外国人を打ち払うこと」と理解していた。端的なのは長州藩が行った下関戦争に象徴されるような、外国船への砲撃だ。ところが、この本を読んでいると、どうもそのあたりの認識が崩れてきて、ずーっともやもやしていた。どうやら多くの人々は外国の戦力と国内の戦力に差があり、戦争をしても勝ち目がないのはわかっていたようなのだ。にも拘わらず、朝廷も攘夷攘夷と幕府に要求しているので、非常に混乱してきてしまった。
それでもう一度よーく考えてみて、はたと気づいた。孝明天皇が望んでいたのは『「神州」に疵がつかないように』であって、戦争は望んでいない。そして、望んでいるのは通商条約の破棄であり、だから、和親条約の段階まで戻すことなのだ。そして、可能であるならば、開港した港の閉鎖だ。そう理解すると、なんとなく平仄が合う。この辺りはどこかですっきりと説明してほしかった。
公家華族
明治になって華族という地位を制度上与えられた公家であったが、彼らが新政府内の要職に就ける特権があったわけではなく、お金欲しさに危ない話に乗ってしまったり、返す見込みもないのに大金を借りて首が回らなくなってしまうものも出てきた。そうした風潮が公家全体に広がれば、公家華族は崩壊してしまうので、明治九(1876)年華族全体を統括する宮内省部長局を設置し、彼らを保護及び監視する体制を作った。そして、4月1日に東京に在住する華族を対象に宮内侍候、5月30日に京都在住の華族を対象に桂宮祗候が設けられた。12月28日には宮内侍候は宮内祗候に、桂宮祗候は桂宮淑子内親王家祗候と改称した。祗候とも無職の華族の生活保護を目的として設けられたものであり、政府の閑職への就職が決まると祗候は辞めなければならなかった。
華族令
明治17年7月7日に華族令が公布され、公・侯・伯・子・男爵の五爵が設けられ、華族に上下の差が生まれた。
公爵
基本的には旧摂家である近衛・九条・一条・二条・鷹司の五家と「国家に偉勲あるもの」として三条と岩倉の二家であった。
ここで特筆すべきなのは岩倉家への厚遇であり、それは岩倉具視への評価である。王政復古で参与になり、その後議定に昇進し、明治二年に大納言に就任した。そして、明治四年には右大臣となった。岩倉家は羽林家という下級貴族であったが、孝明天皇側近の近習の一人であった。岩倉家の宗家は村上源氏の長者である久我家であった。また、岩倉具視の実妹は衛門掌侍堀川紀子(ともこ)は孝明天皇の寵愛を受けており、孝明天皇が岩倉具視に信頼を寄せいてた可能性を本書は指摘している。
侯爵
旧清華家の内三条を除く、大炊御門・花山院・菊亭・久我・西園寺・醍醐・徳大寺・広幡と「国家に偉勲あるもの」として中山であった。