隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

忘却する戦後ヨーロッパ 内戦と独裁の過去を前に

飯田芳弘氏の忘却する戦後ヨーロッパを読んだ。

イシグロ氏がノーベル文学賞を受賞したときにNHKで再放送された「カズオ・イシグロ 文学白熱教室」を見た。 この番組はイシグロ氏が学生たちに自身の創作について語り、学生と討論する番組だったのだが、その中でイシグロ氏が忘れられた巨人に関して、その着想の一つが第二次大戦後フランスで起きた過去の忘却についてだと語っていた。その過去の忘却とは第二次大戦中にドイツに占領されたフランスには愛国者しかいず、レジスタンス活動を通じてドイツ軍と戦っていたという偽の記憶をドゴールが作り出し、国を挙げてそれを信じたというような話だったと記憶している。実際はそのようなことは事実ではなく、ドイツ軍に協力したフラン人も多数いたのは事実なのだが、それを忘却して、国民がバラバラにならないようにあえて偽りの記憶を国民で共有したというのだ。そのことを知ってから、頭の片隅にこの忘却ことが残っていて、なんとなく気になっていたのだが、そのことに関して研究した本が出版されているのを知り読んでみた。

過去に起きたことに目をつぶり、そのことに対して検証もせずに忘却するのは不誠実な対応であり、当然非難されてしかるべきなのだろう。だが、同じ国民の中に根深く残る亀裂と憎悪が表面化すると、国内が二分され、最悪の場合内戦が発生しかねない状況に陥ることも想像される。それを回避するための一つの方法が忘却だというのだ。

通常内戦の終結や、独裁体制の崩壊、非民主主義体制からの脱却が起きた場合、より民主的で公正な社会を築くため、過去に行われた人権侵害や大量殺戮などの深刻な負の遺産の政治的・社会的な救済が行われることがあり、この種の取り組みは「移行期正義」と呼ばれている。いわゆる「過去の克服」であるのだが、戦後ヨーロッパにおいては、移行期正義の追及に制約が課されたり、移行期正義に反するかのような政策がとられたり、特定の政治的事実を不問に付すという「忘却の政治」がとられたことも知られている。そしてこの忘却の政治と密接に関係しているのが「恩赦」である。

筆者は第二次大戦後ヨーロッパで起きた忘却の歴史を、三つの時代区分で解説している。

第二次大戦後

フランス

1940年のドイツ軍のフラン侵攻、独仏休戦協定を結んだフランスのヴィシー政権は当初からレジスタンスを敵とみなしていた。そして、1943年5月27日以降の全国抵抗評議会(CNR)と6月3日のフランス国民解放委員会の発足後は、ヴィシー政権とドイツに対してのレジスタンス活動が活発になり、フランスは内戦状態に陥っていた。この内戦状態は1944年8月のパリ解放でも終了せず、ドゴールの組閣、共産党の入閣、英米の共和国臨時政府承認、ドイツ降伏、ヴィシー政権の無効宣言という一連の流れを経て、レジスタンス勢力側の勝利で終結した。そして、臨時政府のもと、パリ解放前からヴィシー政権の高官や対独協力者に対する浄化活動は行われていた。しかし、1946年1月に臨時政府からドゴールが去り、1947年の冷戦開始後に政権から共産党の閣僚が放逐され、レジスタンの主要な担い手が競合対立するようになり、しかも、現政権に批判的立場に身を置くようになったのだ。

こうなった時に揺り戻しが起こり、ヴィシー政権支持者から行き過ぎた浄化への非難や恩赦が求められるようなった。その結果1953年に包括的な恩赦法が制定された。アルジェリア戦争第四共和政の機能不全と崩壊、ドゴールの復帰、アルジェリア戦争収拾という激動を経て誕生した第五共和制のフランスは、その正当性を革命の英雄であるドゴールに大きく依存していた。権力の座に復帰したドゴールを最高指導者としてその存在を英雄視し、再びレジスタンスの神話が体制の正当化に重要な機能を果たした。そして、それに伴いナチス・ドイツを絶対悪とみなし、フランス国民全体がそのドイツに対してレジスタンスを展開したという神話がが復活し、忌まわしき対独協力の過去を語ることをタブーとする傾向が強まっていったのだった。

イタリア

ドイツではニュルンベルク裁判が、日本では東京裁判が開かれたが、それに相当する国際的な軍事裁判はイタリアでは開かれていない。この事は本書で指摘されるまであまり気にしていなかった。イタリアは、1943年9月8日のバドリオ政権の連合国との休戦協定後、10月13日以降に連合国側に立って対ドイツ戦に加わった。これ以降イタリアは旧枢軸国であると同時に「共同参戦国」という形で連合国側の一員となったのだ。イタリアは、この連合国の一員という国際的な地位のおかげで国際的な軍事裁判を免れることができたのだ。

イタリアでは共同参戦国という地位は国際社会で対等な処遇を与えられない意味で屈辱的なものであり、連合国と対等な地位を求めること、講和条約に旧枢軸国として厳しい懲罰的条項が含まれることを回避すること、更に戦後の国際社会で名誉ある地位を回復することが求められていた。そのため、連合国に対する印象を良好にすることが必要とされ、戦争の責任をドイツに負わせ、イタリア自身も犠牲者であるという言動がされた。その結果自身のファシズムに対する「過去の克服」が曖昧になり、反ファシズム思想・運動は弱体化された。

また、一方で1943年の夏から1945年の春までイタリアは北部から中部を制するドイツおよびその傀儡国家であるサロ共和国と、南部のイタリア王国が敵対する「内戦」状態にあった。その内戦は、連合軍の北部進撃を前に、ナチズム・ファシズム勢力を打倒して北イタリアを解放した国内レジスタンス勢力の勝利に終わった。その後、反ファシズム勢力が独力で民主的政府の樹立を遂げ、その民主的政府のもとファシスト・イタリアの戦争犯罪人が訴追され、裁かれ、又公職を追放された。イタリアの手でファシストを裁く機会があったために、国際的な軍事裁判を免れることができたという側面もある。

南欧諸国の民主化

ポルトガル

イギリスとの良好な関係を築いていたポルトガルは、イギリスとの同盟関係の維持を外交の政策の基軸に沿え、第二次世界大戦勃発とともに中立を宣言した。しかし1940年後半から1942年末までの期間は、ポルトガルもドイツとの関係を重視し、英独等距離外交へと変化していた。一方ドイツの劣勢が明らかになると、ふたたびイギリスとの関係を重視し、イギリス・アメリカに自国の体制の存続と経済的利益の確保を認めさせる外交に変化していった。イギリスにとってもイベリア半島の中立は戦略的に重要だったので、大戦中のポルトガルと連合国の関係は良好であった。第二次大戦後は冷戦開始の影響を受け、ポルトガルのラザール独裁体制は存続し続けた。

ポルトガルの独裁体制の崩壊は1974年4月のアフリカの植民地戦争に反対する軍人クーデターによって始まった。独裁体制崩壊スピノザ将軍のもとに臨時政府が設立されたが、臨時大統領に就いたスピノザ左傾化する「国軍運動」の関係が悪化し、スピノザは辞任に追い込まれる。1975年3月「国民運動」左派と共産党により革命評議会が設立された。革命当初は厳密に旧体制への協力が解釈されたが、次第にさまざまな旧体制のエリートの行動が独裁体制に結び付いていると見なされるようになり、それに伴い浄化の実行に拍車がかかっていった。政治警察と軍部という旧体制の権力機構の中心に対して厳しい処罰的措置がとられた。1975年2月の報告書によると、体制崩壊後一万二千人の政軍官財の各界の重要人物への浄化が断行された。

しかし、1975年11月に社会党社会民主党の支持を受けた「国軍運動」穏健派による急進派排除のクーデターにより、民主主義体制の定着が体制の最重要事項となり、従来の厳しい浄化策は撤回され、その後浄化の対象者の「再統合(復権)」が行われた。民主主義定着過程で目指したのは「国民的和解」であり、独裁体制の遺産の克服よりも、革命状況となった体制移行期の遺産の克服が求められた。このようなアプローチは旧独裁体制下での人権抑圧や圧政の実態の真相解明の意志が弱くなり、結果として忘却の政治となったのである。

スペイン

スペインも第二次大戦に参戦していなかったが、それは第二次大戦開始時は内戦による人的物的損害のため中立を宣言したからだ。しかし、ドイツの攻勢とともに英仏との領土問題を有利に進めるため、枢軸国側にたって参戦を考えるようになり、非交戦状態になった。参戦は国内経済の悪化とイギリスのドイツに対する攻撃を前に実現しなかったが、1941年6月には「道義的参戦」となって枢軸国に接近していた。しかし、アメリカの参戦とともに再び中立を宣言し、アメリカの要望によりスペインが反共と「カトリック・デモクラシー」の国であることを強調したことにより、第二次探戦後もフランコ体制は維持された。

フランコ体制の崩壊は1975年11月20日フランコの死去により始まった。移行は国王ファン・カルロスにより指名されたフランコ体制内の政治家スアレスの指導の下すすめられた。新体制発足時の基本法とされた政治改革法は、フランコ体制下の議会で審理され成立し、その結果旧体制と新体制の間には高い人的・制度的連続性が確保され、それが新体制による旧体制に対する厳しい裁きを封じる一背景となった。また、1977年6月に行われた民主化後の最初の総選挙ではスアレス率いる民主中道連合が第一党となったが、過半数を抑えることができなかったため、議会運営のために野党の協力が必要となり、「合意の政治」色が強まっていった。

スペインの民主化はある意味円滑に進んだが、各地で暴力事件、「バスク祖国と自由ETA」による軍や警察を狙ったテロリズムが起こり、政治的な安定が何にもまして優先事項となった。暴力が広がり、状況が内戦を想起させ、それが平和的な体制移行を選択させたのだ。更に、バスクカタルーニャの民族問題の非争点化、1977年の国際的孤立と独裁からの脱却の象徴的な行動としてECへの加盟申請がなされた。

体制の移行は、体制側と反体制側の交渉・協定締結によりするめられた。その一環として結ばれた「内戦と独裁の過去を忘却することについての協定」がスペインにおける忘却の政治の中核をなしている。

ソビエト崩壊後の東欧

ポーランド

ポーランドは旧東欧諸国の中では共産主義体制を打倒した最初の国であったが、本格的な浄化を制定するまでに8年以上の歳月を要した。1990年12月の大統領選にワレサは公共機関の「非共産主義化」を掲げて勝利し、1991年10月の初の自由選挙後成立したオルシェフスキ政権が誕生した。同政権は秘密警察との協力を行った政治家や政府高官のリストを1992年6月4日に大統領と議会に提出した。しかし、このリストにワレサ自身のみならず反共産党の政治家も含まれていた。このリストはすぐにリークされ、ワレサは大統領権限を用いてオルシェフスキを罷免した。1995年末民主左翼連合のオレクスィ首相に対するKGBスパイ疑惑ワレサや野党から指摘され、再び浄化問題が政治の焦点となった。その結果、民主左翼連合と旧連帯系二政党の共同提案によって、ポーランドで初めて、限定的な内容ながら1997年4月に浄化法が、1998年12月に文書公開法が成立した。

浄化法は公職の座にあるもの、裁判官、検察官、主要メディアの要職にあるものに、共産主義体制との協力関係の有無を自己申告させ、その真偽を旧共産党の公安秘密文書と照らし合わせて判断し、虚偽の申告を行ったものに対しては訴追がなされ、一定期間は公職に就くことが禁じられるというものであった。

チェコ共和国

チェコスロバキアは旧東欧諸国の中で移行期正義の実現に関しては最も進んだ国で、通常は公職追放(purge)という語が用いられるケースに浄化(lustration)という単語を復活させた。この国は1991年10月に旧東欧諸国の中で初めて浄化法を成立させた。しかし、共産主義チェコ社会に残した対立が克服されたとはあまり認識されていないようだ。なぜなのか?それは共産主義時代とその崩壊期に生じた社会的対立を緩和するような配慮が見られなかったからだ。補償(金銭支給、復職、没収財産の返還)は純粋に犠牲者個人向けの物で、加害者と被害者の関係改善や犠牲者の社会統合のために社会全体で補償を進めようという機運がなかった。和解に通じるとされる真実の追及も、犠牲者が期待した社会的認知や孤立感の解消、旧体制の過去への社会的関心の喚起といった要求も十分には満たされなかった。その結果、和解がもたらされるというよりは、過去の対立が持続することになってしまったのだ。

チェコでは、正義の追及こそが過去に対する態度として正しいという理解があまりにも強かった。移行期正義のための諸施策に和解のためのものがほとんどなかった。1991年制定の浄化法は、民主化定着までの5年間に限定して制定されていたが、その後10年に延長され、最終的には恒久化した。

ルーマニア

1989年12月共産主義体制が倒れ、チャウシェスク大統領夫妻が銃殺された後、救国戦線評議会が権力を握った。共産主義体制のルーマニアでは反体制勢力が育成され組織化されることはなかったので、共産主義体制崩壊後も、共産党に代って権力を実際に行使する政治主体がなかった。救国戦線評議会は間もなく中堅以下の旧共産党員を取り込んで、彼らが運営する組織となった。救国戦線評議会は1990年の選挙の時に政党登録し、その後、中道左派と右派の2党に分裂し、この2政党のいずれかが政権の座についていた。この結果、共産党支配の過去の克服が困難になったのだ。

救国戦線評議会は、共産主義体制の犯した罪をチャウシェスクとその家族の犯罪にすることに成功した。そのため、多くの旧共産党員を含む歴代の政権は浄化法の制定に消極的で、浄化法は2006年になりようやく成立した。

ユーゴスラビア

共産主義体制が崩壊した後に内戦が勃発し、複数の国家に分裂したユーゴスラビアでは、分裂した各共和国の政治指導者は共産党の名を捨てて、政治的な多元主義を口にしつつも、ナショナリズムを称揚することで権力を実質的に維持した。その結果、共産党の後継政党もその反対派も、共産主義時代の過去についてはほとんど関心を抱かないという事態が生じた。対立や競合が生じたのは、共産主義体制成立以前の第二次大戦期の犯罪や、共産主義体制崩壊後の「国民的和解」を構築する手段であった。

例えばセルビアクロアチアでは、共産主義体制崩壊後、ナショナリストに変貌した元共産党員が権力を掌握した。彼らは旧ユーゴスラビアの多民族的なアイデンティティを否定し、極めて自国中心的な性質を帯びていた。しかも、共産主義時代の人権侵害を自国民への弾圧ととらえる政治色も強かった。セルビアクロアチア多民族国家ユーゴスラビア共産主義体制の犠牲者であるという位置づけが与えられ、共産主義支配からの民族解放という大義が内戦を正当化し、ナショナリズムが独立国家の建国神話の核を占めるようになった。

また、反対派の多くも元共産党の経歴を持っていたので、野党の政治戦略としては共産主義体制下の犯罪よりも、現政権の犯罪を告発する方が有効であり、反対派においても共産主義時代の「過去の克服」に労力が注がれることが無く、忘却の対象となった。