隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

花殺し月の殺人――インディアン連続怪死事件とFBIの誕生

デイヴィッド グランの花殺し月の殺人――インディアン連続怪死事件とFBIの誕生(原題 Killers of the Flower Moon The Osage Murders and the Birth of the FBI)を読んだ。

アメリ先住民族はそれぞれの月に名前を付けた。5月はFlower Moonなので、本来は花月と呼ぶべきなのだろうが、本書のタイトルはその二文字の間に「殺し」を入れている。これは全くの造語なだが、言いえて妙だ。本書は1921年の5月にアメリカ先住民のオセージ族のモーリー・バークハートに起きた本当に悍ましい殺人事件の記録である。

オセージ族

17世紀の頃オセージ族は北アメリカの中央部の大半、現在のミズーリカンザスオクラホマ、さらに西部のロッキー山脈までが自分たちの土地だと主張していた。1804年トマス・ジェファーソン大統領はホワイトハウスでオセージ族の代表団と会見し、「戻ったら君たちの部族に伝えてほしい。わたし自ら、君たちみなの手を取ると。私が君たちの父になるので、君たちはこの国を友人であり、後援者であると思ってほしい」と伝えた。しかし、四年も経たないうちに、ジェファーソンはオセージ族にアーカンソー川からミズーリ川の間の土地を手放すように迫った。オセージ族には選択の余地がなく、その後20年に渡り、父祖伝来の土地を放棄するように迫られ、最終的にはカンザス州の南東部の80×200キロメートルにわたる土地に追いやられることになった。

オセージ族は合衆国政府からカンザスの土地の領有権を恒久的に認められていたが、ほどなくすると開拓者たちが周囲に迫ってきた。1870年、テント小屋から追い出され、墓を荒らされたオセージ族はカンザスの土地を1エーカ当たり1ドル25セントで入植者に売却することに同意した。しかし、待ちきれない入植者たちはオセージ族の何人かを虐殺し、遺体を切断し、頭皮を剥いだ。

1870年代初頭にオセージ族はインディアン特別保護区の中のチェロキー族の土地150万エーカを1エーカーあたり70セントで購入し、集団で移住し始めた。この移住とともに天然痘の流行も重なり、オセージ族の人口は70年前の三分の一に減り、人口はおよそ3000人までに減った。新しい保留地でもオセージ族は昔ながらにバッファローを捕獲して生活したが、1877年ころまでにはバッファローもほぼ姿を消し、狩りができなくなった。開拓を急ぐために当局が入植者をたきつけて、バッファローを絶滅させたという証言もある。

また、その当時合衆国の先住民族に対する政策が封じ込めから強制同化政策に転じ、教会に通わせ、英語を話させ、服装も開拓農民のものに改めさせられた。カンザスの土地の代金は毎年支払うことになっていたが、農耕を始めなければ支払わないと主張したり、支払いは衣服や食料の配給の形で行うとして政府は譲らなかった。この食料配給はのちに廃止された。

1890年代末、合衆国政府は同化政策の一つとして、土地割当制を強化していた。この政策に従うと、オセージ族の保留地は部族員一人につき160エーカが不動産として割り当てられ、残りは入植者に開放されることになる。これは、先住民を土地の所有者にし、先住民の土地を手に入れやすくする政策である。オセージ族は自分たちの土地を購入していたので、政府は土地割当制を強制しにくかった。オセージ族は粘りずよく政府と交渉し、土地は部族員だけで分割することになり、部族員一人当たり657エーカの割り当てとなった。この対策のおかげで、入植者が猛烈な勢いで保留地に突進してくるのを防げた。更に、重要な条項も追加して、合意文書に盛り込めた。それは、「地下に埋蔵される石油、ガス、石炭をはじめとする鉱物はオセージ族が権利を有する」という条項だ。

オセージ族は保留地の地下にかなりの石油があることを知っていた。1906年に土地割当法の条項が合意に達すると、オセージ族は登録名簿に従い均等受益権を部族の鉱物信託から受ける権利を得た。鉱物資源の管理はオセージ族が部族で管理を続けたため、だれであっても均等受益権を売買することはできず、この権利は、相続によってのみ受け継げた。

オセージ族が土地の賃貸を始めると石油を採掘する白人が次々と現れて増えていき、オセージ族はアメリカ一の裕福な先住民族となった。

モーリー・バークハートに訪れた悲劇

1921年5月24日、モーリー・バークハートの一歳違いの姉のアナ・ブランが行方不明になり、一週間後フェアファックスの近くを流れるスリーマイルクリーク周辺の茂みが生い茂る谷底で遺体が発見された。死体は腐敗が進んでいたので身元を確かめるのに難航したが、衣服からアナと確認できた。郡保安官補が捜査にあったたが、犯人逮捕には至らず、治安判事は7月にアナ・ブラウンの死は「未知の人物により」もたらされたものだという声明を出し、審問を打ち切った。

モーリーの母リジーは日に日に元気がなくなり、ぼんやりするようになっていった。モリーの妹のミニーと同じような特異な消耗性の疾患にかかっているようだった(ミニーは1918年に他界している)。そして、アナの殺害から2か月余りの7月のある日リジーは息を引き取った。リジーが特異な病気であり、誰一人として原因を突き止められず、リジーの死が自然死だという証拠も示されなかったために、毒殺が疑われたが、それを証明することもできなかった。

1923年3月モーリーの妹のリタとその夫のビル・スミスの家が何者かに爆発された。やがてがれきの中から両腕、背中、両足が焼けただれたビルが発見された。そしてそのそばに妻のリタも発見されたが、すでに死んでいた。ビルは爆破から四日後に息を引き取った。

こうしてモリーは母・姉妹の均等受益権を相続することになった。そしてその頃モリーは持病の糖尿病が悪化したように見え、様態が悪化していた。その後ポーハスカの病院に入院し治療を受けると、病状はみるみる改善していった。

捜査局が捜査に乗り出す

1925年夏、捜査官のトム・ホワイトはワシントンD.C.にある捜査局の本部に呼び出され、局長に就任したばかりのフーヴァーからオクラホマのオセージ族に続発する不審死について捜査するように命じられた。オセージ族の不審死は当時わかっているだけでも24件あったが、どれも未解決であった。テキサス・レインジャーから転身したホワイトは悪徳捜査官や無法者が跋扈する辺境の先住民地区を捜査するにはうってつけの人物で、豊富な現場経験がものを言い何とかモリーの姉、妹夫婦の殺害事件については埒を開けられたが、それ以外の捜査をする前に終了が言い渡されてしまった。

この事件はまさにオセージ族が裕福であったがためにその財産を狙って起こされた事件であり、その地下資源の均等受益権は相続でしか継承できないことを考えると、その犯人も彼らの周囲にいた人間ということになり、非常に後味の悪い、事件の結末を迎えることになる。そして、その事件の影響はのちの世代にも及んでくことになる。

当時のオセージ族は一般的に言って成人とはみなされおらず、白人の後見人が必要とされた。そして多くの白人の後見人が不正を働いて、オセージ族の財産を侵害していたのだ。そして、この後見人制度のせいで、オセージ族は信託基金から年に数千ドルしか引き出せないようになっていた。オセージ族が後見人制度の廃止を訴えた結果、モリーは1931年被後見人ではないことが裁判所に認められた。その時彼女は44歳だった。