隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

遺伝人類学入門

太田博樹氏の遺伝人類学入門を読んだ。人類学というのは聞いたことがあるが、遺伝人類学とは何だろう?と思って読み始めた。遺伝人類学を短く言うと、人類という集団を遺伝という観点から研究する分野のようだ。これも近年遺伝子の解析が高速化・低価格化したことにより、急速に発展してきた分野の一つであると思われる。本書は新書であるので、最初の章ではゲノム・遺伝子・DNAに関して解説してくれているので、この分野のことを全く知らない人でも読み進められるようになっている。




歌うカタツムリ――進化とらせんの物語 - 隠居日録にも遺伝的浮動の説明が出てきたが、この本の中にもその説明があり、もう少し厳密な説明が書かれていた。

遺伝的多型とアレル

ある集団において、祖先配列に、ある突然変異が入りその突然変異が集団内で頻度を増し、1パーセント以上になった場合、これを遺伝的多型(genetic polymorphism)と呼ぶ。特に、DNAのある配列に着目したときに、その領域の塩基ATGCのうち一文字変化しているものを一塩基多型(SNP single nucleotide polymorphism)と呼び、こうした変異のある場所を多型サイトと呼ぶ。

また、多型サイトにおける変異の一つ一つを「アレル」(allele)と呼ぶ。

遺伝子頻度

遺伝子頻度とはアレル頻度と同意でる。ある多型サイトに着目し、そこにCアレルとTアレルがあるとしたときに、50人の集団を調べた場合、一人一人は母親と父親からもらったアレルがるので100のアレルが存在する。この時、Cアレルが60、Tアレルが40の場合、この集団でのCアレルの頻度は60%、Tアレルの頻度は40%になる。

遺伝的浮動

遺伝的浮動とは遺伝子頻度がランダムに変動することを意味する。

遺伝的距離と地理的距離

本書には「チンギス・ハンDNAは何を語るか」という副題がついているのだが、これは何も意味しているかというと、「遺伝距離と地理的距離の関係」とに関係している。遺伝距離とは比較対象の二つの塩基列の異なっている文字の個数を全体の塩基数で割った値である。ヨーロッパにおける人類集団の遺伝距離と地理的距離の関係をプロットすると以下のような関係にある。

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ヨーロッパにおける人類集団の遺伝距離と地理的距離の関係

Y染色体に基づいて計算した遺伝距離は地理距離が大きくなると、遺伝距離も大きくなる。一方ミトコンドリアDNAの場合は地理距離が大きくなっても遺伝距離は大きくならない。男女ほぼ同じようにアフリカから拡散したとすると、Y染色体の遺伝距離もミトコンドリアDNAの遺伝距離もそれほど差が生じないと考えられるのだが、実際はそれとは異なっている。

マーク・セイエルスタッドの仮説

ヨーロッパにおける遺伝距離と地理距離の関係は、婚姻システムが影響しているのではないかという説をマーク・セイエルスタッドは提案した。Y染色体の場合は地理的距離が離れていくほど遺伝距離が離れていくが、ミトコンドリアDNAの場合は地理的距離が離れていっても遺伝距離はあまり変わらない。つまり、男性の系統の場合は、地理的に離れると遺伝的のも違ってくるが、女性の系統の場合は、地理的距離が離れても遺伝的な違いがあまりない。父系社会では男性の系統がある土地に住み着き、財産と社会的地位を守り継承していく。家長である男性は一所にとどまる傾向があるために、Y染色体の集団内の遺伝的な多様性はあまり増えない。けれども、女性は「嫁入り」という婚姻システムを通じて集団間を行ったり来たりするため、時間を経てもミトコンドリアDNAの集団内の多様性は維持されていくし、集団間では常にシャッフリングされている状態になり均質化する。ヨーロッパは父系社会なのでこのような現象が起こったのではないかという説だ。

タイ北部での山岳民族フィールドワーク

筆者らは1990年代の前半からタイ北部の山岳地帯でフィールドワークを行い、赤カレン族、白カレン族、黒ラフ族(以上妻方居住の集団で、婿入りが一般的)、アカ族、リス族(以上夫方居住の集団で、嫁入りが一般的)のDNAを調査した。その結果、妻方居住、夫方居住の集団の遺伝距離は以下の通りとなった。

 ミトコンドリアDNAY染色体
妻方居住0.2900.131
夫方居住0.1180.451
ミトコンドリアDNAを調べると、妻方居住の集団のほうが集団間の遺伝的な違いは大きくなる。これは女性が一か所にとどまって、外部から新しいミトコンドリアDNAが入って来にくくなるので、各集団でミトコンドリアDNAの対応に偏りが生じてくると推測される。Y染色体を調べると、夫方居住のの集団のほうが集団間の遺伝的な違いは大きくなった。

チンギス・ハンの遺伝子

2003年に、クリス・テイラースミスらの研究グループが「モンゴル人の遺伝的遺産」という論文を発表し、東アジアのY染色体の頻度分布にはチンギス・ハンの影響があるという主張をした。下のリンク先のfigure 1が東アジアの各集団のY染色体を分析し、系統ネットワークを描いたものである。

www.ncbi.nlm.nih.gov

この図のstar clusterと書かれているY染色体のタイプが急激に頻度を増し、その子孫もたくさん生まれ、その子孫が東アジアの様々な地域に更に子孫を残して現在に至っているというのだ。クリス・テイラースミスらはこのY染色体のタイプの共通祖先にさかのぼる時間を計算したところ、このタイプが生まれたのは1000~2000年前という推定値が出た。のちにチンギス・ハーンとなるテムジンは12世紀半ばに誕生したとされているので、このY染色体の共通祖先がテムジンである可能性はあるというのだ。

クリス・テイラースミスら、モンゴル帝国が支配していた地域とその周辺地域約50か所でチンギス・ハンのY染色体と推定したY染色体の頻度を調べた結果、それらの地域ではこのY染色体が見つかるのに、支配されていない地域、例えば日本・中国大陸の南地域では見つからなかった。そして、現在のモンゴル人民共和国と中国の内モンゴル自治区では25パーセントの高頻度で見つかった。

クリス・テイラースミスらはY染色体を調べて見えてきたこの現象を「社会選択(Social Selection)」と呼んだ。社会的に有利な立場に立った系統の特定のゲノム領域が選択的一掃と同じパターンを示す現象だ。