野村朋弘氏の諡-天皇の呼び名を読んだ。
よく天皇一覧に載っている○○天皇というのは、明治以降は別として、全て漢風諡号だと思っていた。ところがこれが全くの間違いだということに気付かされた。実はあれは漢風諡号と追号の組み合わせなのだ。上皇の日本史 - 隠居日録にも書いたが、平安期から突如として冷泉院という呼び方がされるようになるが、これが追号だ。追号には在所号、山陵号、加後号、漢風諡号の合成、元号を持って追号のいくつかの種類があるが、諡号ではない死後に贈られた先代天皇の呼び名なのだ。
諡号とは
では諡号とは何か。諡号はもともと中国で作られたものだ。中国や東アジア、あるいは世界各地では、皇帝、帝、王を呼ぶときに実名(諱)を用いるのは失礼であるという考えが存在している。なので、通常「陛下」などと呼称するが、王や皇帝がなくなると、前王、前皇帝の呼び方がなくなってしまうのだ。そのため、王や皇帝の死後、子孫や臣下が新たな呼び名をつける必要が生じた。中国では「廟号」と「諡号」が発明された。
廟号は、祖先祭祀に必要不可欠な死後の呼び方である。古代中国においては、父や先代の葬儀を行い祖先を祀ることが自らが後継者であることの証であり、周囲からの承認でもあった。特に後継者が複数いる場合は、葬儀を主宰するものこそ正統性を示すことになる。祖先祭祀とは、位牌を祀る宗廟に供物を捧げ、膜拝する儀礼が主なものとなる。
諡号も廟号と同じく死後に名付けるものであるが、子孫が死者の業績を評価して、名付けるものだった。
日本での諡号
日本の諡号には二種類あって、それらは中国と同様に奉られた漢風諡号と、日本独自の尊号からの変化である国風諡号である。
国風諡号
国風諡号は和風諡号、国語諱、本朝様諱とも呼ばれている。国風諡号の成立は、古代において殯宮儀礼が整備されたことによるというのが通説となっている。殯とは死去してから埋葬するまでの喪葬儀礼の一つで、大王が死去したときに殯宮が起こされ、亡き大王の幽魂を慰撫する行為がなされる。この殯の儀式は中国から来たもので、殯と時を同じくして、誄や諡を送る行為も日本に伝わってきた。国風諡号が最初に献呈されたのは安閑天皇とされている。
国風諡号は朝廷が連合政権であった名残といわれている。大王が死去した場合は王権は大王を離れ、喪葬儀礼の際に群臣が先代の大王に対し実名を含んだ称号を贈る儀式が行われた。この称号が、中国の諡号制度の受容とともに変化し、国風諡号になったといわれている。
追号
国風諡号と漢風諡号が贈られなくなってから、先代の天皇に対しては追号と呼ばれる在所号などが死後の呼び名となって行く。そして、天皇の尊号を「○○天皇」から「○○院」のように、院号とするようになる*1。天皇号から院号に変化するのは、天皇に即位したまま亡くなることが少なくなり、太上天皇つまり院となって亡くなることと、出家する上皇が増えたことによるのであろう。
崇徳院、安徳院、顕徳院、順徳院
これらの諱は諡号であり、これらの天皇に共通するのは、内乱にかかわり、畿外でなくなっていることである。
崇徳院
崇徳院は保元の乱に敗れて讃岐に流され、没している。当初、配所である讃岐の国名をとって讃岐院と呼ばれていた。崇徳院は讃岐の国から帰京することを願っていたが、叶わず長寛二(1164)年八月二十六日に亡くなった。その後京都で大火や疫病が発生し、祟りを恐れた後白河院は国号を追号した讃岐院をやめ、崇徳院と改めたのだ。愚管抄に「安元三年七月二十九日ニ、讃岐院ニ崇徳院と云名ヲバ宣下セラレケリ、カヤウノ事ドモ、怨霊ヲ、ソレタレケリ」とあり、怨霊を恐れて諡号が贈られたことがわかる。
安徳院
安徳院は治承・寿永の乱で、平家一門とともに海に沈んだ。