隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

撰銭とビタ一文の戦国史 (中世から近世へ)

高木久史氏の撰銭とビタ一文の戦国史 (中世から近世へ)を読んだ。

貨幣・銭とは

まず最初に本書では貨幣・銭に関して次のように定義している。

交換手段と価値尺度の機能を持つ媒体の中で汎用性が高いもの、またはその機能そのものを、私たちは貨幣と読んでいる

貨幣というかお金というものは、どこか信頼がおけるところが発行しているので、みんなが信用し、だから流通して、使っているというような気がしていたのだが、上の定義ではそのことは全然触れられていない。考えてみれば、仮想通貨・暗号資産が登場してから、もうすでにどこか信頼がおけるところが発行するということが、通貨やお金の必要条件ではなくなったのかもしれない。あるいは、もともと多くの人はそんなことは気にしていなかったのだろうか?仮想通貨の登場により、それ自体に価値があると思う人たちの幻想のみに依存するというところまで我々は来てしまったのかもしれない。

本書では主に「銭」を扱っているのだが、これも不思議な言葉だ。金貨、銀貨は材質を表しているのに、銭は物質としては銅と錫の合金がほとんどだが、あまり銅貨とは言わないし、まして青銅貨などという言葉は聞いたこともない。また、銭の単位は大体にして1文で、完全に計数貨幣だ。不思議なことに日本では銀は量って使われる(秤量貨幣)ことが多いと思う。

銭貨の発行

奈良時代平安時代の日本では銭を発行していた。有名なのは和同開珎だろう。しかし、10世紀頃を最後に、公が銭の発行を止めてしまったので、中国からの輸入で需要を賄ったという。しかし、不思議なことに輸入銭に関して朝廷は通用することを何の保証もしていない。更に、13世紀後半から14世紀の頃になると日本で再び銭が作られるようになったのだが、作っているのは朝廷ではなく、一般人なのだ。そのようにして作られた銭を私鋳銭と呼んでいる。但し、作成方法は鋳造したかどうかはわからず、打造や鍛造もあったようであり、そのような銭は品質が劣っている。もちろん、私鋳銭は犯罪で取り締まりの対象になっているはずなのだが、それがなくならないのが不思議でたまらない。

えりぜに

日本では中国から輸入した銭、国内で発行された私鋳銭が入り乱れて流通することになり、それぞれの地域で好まれる銭が異なっていたというから興味深い。例えば新しい銭は私鋳銭の可能性が高いので嫌われたりする。また、九州では洪武通宝が好まれたり、機内では永楽通宝が好まれたりしたようだ。このような好みがえりぜにに繋がっていった。このような撰銭に対して、15世紀後半になると、大名や室町幕府は撰銭令を出して対応した。本書では「撰銭現象を放置しなかった」と書かれているのだが、一概にもそのように読み取れなかった。というのも、大名や室町幕府が定めたのは、基準となる銭とそれに混ぜて流通させても良い銭とを指定しているだけだからだ。ここからは、これ以外の銭を排除しているよう感じられるのだが、実態がよくわからない書き方だと思った。

江戸幕府による銭貨の発行

このような状態は戦国時代を経て江戸時代になっても続いたようである。それは、江戸幕府においてようやく銭貨を発行するまで続くことになる。江戸幕府は、高額の支払いが多いために、財政を運営するために、必要な高額貨幣である金貨・銀貨を優先して発行し、庶民が使う少額貨幣である銭貨の供給を後回しにしたからだ。寛永十三(1636)年、江戸幕府はようやく寛永通宝を作り始めた。このタイミングとなった理由としては、参勤交代に伴い各宿場で食料費・宿泊費のために大量に銭が必要になったことと、国内で銅山が多数開発されたことが挙げられている。

江戸幕府は江戸・坂本・水戸・萩などの各地に寛永通宝を作る請負業者である銭座を設けたが、それ以前はその地では私鋳銭が作られており、彼らが作った銭は、琉球ベトナム、ジャワへ輸出されていた。この銭の輸出は、江戸幕府による海外渡航の禁止により終了することになる。このことは、私鋳銭を作っていた者たちが公に銭貨を作る業者に生まれかわったことになる。