隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

プーチンとロシア革命

遠藤良介氏のプーチンロシア革命 百年の蹉跌を読んだ。著者は産経新聞で11年半の長期にわたりモスクワ特派員としてソビエト連邦・ロシアで取材した記者だ。2017年から産経新聞のオピニオン欄に80回にわたって連載した記事に、加筆修正して一冊にまとめたのが本書だ。

確か小学生の頃、地図でソビエト連邦を見たときに、その中に多数の共和国があることを発見し、国の中に国があるというのはどういうことなのだろうと疑問に思ったことが思い出される。当時は連邦というものがなんだかよくわかっていなかったのだが、それから何十年たってもやはりソビエト連邦・ロシアというのはよくわからない。

レーニンの革命推進

1917年の十月革命後の11月12日の選挙では社会改革党が40パーセントで第一党になり、ポリシェビキが24パーセント、立憲民主党が5パーセント、メンシェビキが2パーセントだったのに、11月28日に予定されていた憲法制定会議の5日前、ポリシェビキ派のレーニン選挙管理委員会の全員の逮捕を命じたと書かれているのだが、どこにそんな権限があったか全く謎だ。どうやら、「反革命サボタージュ取り締まり全ロシア非常委員会」というKGBの前身組織が作られており、この設立にレーニンが関与し、この組織が実行したようなのだ。この組織は、反革命サボタージュの名のもと大勢の反レーニン的な人物・政敵を粛正していったようだ。結局レーニンに確固とした国家観がなかったのではないかと本書は指摘しているのだが、やっていることが粛正による独裁にしか見えないので、本当にその通りだと思う。

スターリンの粛清の時代

驚くことに近年のロシアの世論調査によると、スターリンによる弾圧を犯罪だったと考える人が2012年には51パーセントあったのが、39パーセントに減っているということだ。これにはプーチンが「第二次世界大戦勝利や超大国ソ連の偉業」を国民団結の柱にしようとしてスターリンの業績を宣伝しいることが背景にあるらしい。

プーチンレーニンに関してはあまり評価していないようで、「我が国の建物の下に時限地雷を仕掛けた」と評したらしい。これは連邦体制に関することで、スターリンの考えでは「各共和国はロシア・ソビエト共和国に加盟し、ロシア・ソビエト共和国の権力機関を連邦機関として受け入れる」というものだった。一方レーニンは「すべての共和国が対等の地位で新しい連邦に参加し、連邦としての権力機関を持つ。加盟共和国の脱退の自由も認める」というものだった。結局レーニン案に基づく条約が承認されることになったが、スターリンは各地の民族エリートを粛正し、力ずくでロシア化、中央集権化を進めた。しかし、この条約のせいで後年ソビエト連邦が崩壊したので、プーチンは時限地雷と称したのだろう。

朝鮮戦争ソビエト

朝鮮戦争時は北朝鮮が韓国に侵攻し、3日後にソウルを占拠したが、アメリカが海軍・陸軍を投入すると、北朝鮮は劣勢に立たされ、中国からの大軍が投入され再び形勢が逆転したと理解していたが、どうやらソビエトの軍隊も投入されていたということらしい。考えてみれば、北朝鮮という国に、伝説の英雄「金日成」を立てたのもソビエトであり、北朝鮮の建国当時から関与していたので、朝鮮戦争の最初からソビエトが関与していたとしても不思議ではない。米軍が戦争に介入してから、「ソ連軍顧問が前線にいないと部隊が指揮できない」と金日成ソ連に泣きつき、スターリン毛沢東北朝鮮支援を求める電報を送った。しかし、毛沢東は米中衝突を懸念し、一時は難色を示したものの、ソ連空軍の援護を受けるという条件で中国軍の派遣が決まった。ソ連パイロットに中国軍の制服を着せるという偽装を行い、空軍部隊を派遣した。スターリンは1951年の毛沢東にあてた電報で、「長期戦によって中国軍は現代戦を学ぶことができ、米国のトルーマン体制を弱体化できる」と戦争継続の意義を唱えていたという。そのため、休戦交渉が妥結に向かうのはスターリンが1953年3月に死去した後だった。

停滞のブレジネフ

ブレジネフ時代に国民所得は1.5倍に増え、人口は1200万人増加した。週休2日や年3週間の有給休暇が広く定着したのもこの時代で、医療費や教育が無料であったので、一般庶民には悪い暮らしではなかっただろう。また、スターリン時代が終焉し、多少の自由はあった。

しかし、ソ連では重工業や軍需産業を偏重した経済が出来上がっていたので、国民生活に直結する消費財の生産は軽視され、日用品は慢性的に不足し、品質も劣っていた。外貨獲得は地下資源に依存し、国際価格の変動が国内経済に影響を与えやすい構造になっていた。また、農業を犠牲にした工業化により、80年代には世界最大の穀物輸入国になった。

崩壊のゴルバチョフエリツィン

ここからのことは20世紀の終わりに起きたことで、なんとなく覚えているのだが、正確にはあまりよく覚えていなかった。ゴルバチョフソビエト連邦の大統領になり、その後エリツィンがロシア共和国の大統領になり、あっちこっちの共和国で大統領が出てきたことは記憶している。しかし、このあたりの詳しい経緯は本書では語られていない。ただ、1991年8月19日のクーデターでゴルバチョフが幽閉され、「違法クーデターに立ち向かう」エリツィンがクーデターを抑え込んだときには、ゴルバチョフの権威は喪失していた。そして、エリツィンが権力の座についてもブレジネフ時代の停滞によって病んでいたロシアは回復せず、崩壊の一途をたどっていく。