隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

クララ・ホイットニーが綴った明治の日々

佐野真由子氏のクララ・ホイットニーが綴った明治の日々を読んだ。

このようなアメリカ女性が明治初期に日本に滞在し、少なからず日本に影響を与えていたということを全く知らなかった。更に、彼女は勝海舟の三男と結婚していたというのだから驚きだ。勝海舟は幕末までの歴史の中では取り上げられるのだが、明治になるとあまり取り上げられることがなく、なぜなのか以前から不思議に思っている。いつか詳しく調べてみたいとは思っているのだが、いまだに実現していない。そんな中で、勝海舟の三男の配偶者がアメリカ人女性であったというのは、全く知らないことであったので、興味深く読んだ。

本書は「日記で読む日本史」というシリーズの一冊なので、クララ・ホイットニーが書き残した日記を手掛かりに、明治期の日本をアメリカ人女性の視点から見た本だ。なので、クララの残した日記の記述に基づいての解説になるので、明治全般的な歴史ではないし、クララ自身の評伝でもない。また、引用されている日記もそれほど大量ではないので、本書に書かれていないことも多数あるし、多分著者本人にもわからないことも色々あるのだろうと想像する。クララについてもっと知りたいのなら、彼女について書かれた本を読んだほうがきっと良いのだろうというのが、読後の率直な感想だ。

日本渡航の経緯

クララ・ホイットニーは1860年ニュージャージー州ニューアクに父ウイリアム、母アンナの間に生まれた。五歳年上の兄ウィリスと八歳年下の妹アデレードがいる。父のウイリアムは商法を教えておりブライアント・ストラットン・アンド・ホイットニー・ビジネス・カレッジの校長職をしていた。1870年の暮れに官費留学生の富田鐡之助(後の日本銀行総裁)がその学校に入学したことにより、日本人とホイットニー一家の交流が始まった。富田はホイットニー家に下宿していたようだ。富田との縁で当時駐米代理大使であった森有礼の肝いりで、1872年頃ウイリアムを商法の教授として日本に招聘するという話が持ち上がった。

一家が日本行きに踏み切った理由として、ウイリアムのビジネス・スクールの経営が芳しくなかったこともあったようだが、母のアンナに芽生えた日本でキリスト教の信仰を広めたいという気持ちもあったようだ。クララの日記によると、1873年春にワシントンの森有礼をアンナ、ウィリス、クララで訪れたことが記されているようだが、なぜ父親のウイリアムが同行していないのかが不思議だ。アンナの方が日本行きに乗り気だったのだろうか?しかし、それから五か月後、この話はいったん反故になり、日本行きの希望が一旦ついえたことが、クララの日記に記されている。

商業学校設立に関する日本側の動き

森有礼はその年の7月に日本に戻り、商業学校の設立に向けて動き、東京府知事大久保一翁を動かし、東京会議所の了解を取り付けた。これが10月ごろのことで、一旦は商法講習所の創設が認められた。しかし、学校建設予定地の払い下げが進まないために、この計画も頓挫してしまう。

その後、森は払い下げを求めていた土地を自宅用に借り受けるという形をとり、実際には講習所の教師館にするため洋館の建設に着手していた。これが1875年2月ごろである。これを契機に米国の富田鐡之助にゴーサインを出したのではないかというのが著者の推測である。その後、クララの日記に1875年4月21日の日記に日本に向けて出発することになったことが記されている。ウイリアムは4月16日に学校を退職し、日本に向けての出発の準備を開始したと思われる。そして、5月下旬にはニューアークの家を引き払い、6月30日に日本に向けて出発した。

太平洋を越えて日本へ

1875(明治8)年7月15日、ホイットニー一家はサンフランシスコからオーシャニック号に乗船し、太平洋に出た。オーシャニック号はイギリスの海運会社のホワイト・スターラインによって1870年に建造され、翌年に就航した船で、航海には蒸気と帆を用いていた。当初は大西洋航路に就航していたが、1874年に設立されたアメリカのオクシデンタル&オリエンタル汽船にチャーターされ、1875年にサンフランシスコー横浜ー香港間を結ぶ航路に就航した。オーシャニック号のおかげで、従来1か月はかかる太平洋の横断は半分の15~16日に短縮された。そして、7月15日の航海はオーシャニック号の記念すべき最初のアジア向けへの航海だったのだ。

8月3日オーシャニック号は横浜港に到着した。待ちに待った日本への到着で、翌日には東京に向かったであろうが、クララの日記は19日までない。その間ホイットニー一家は父に約束された商法講習所の教師の地位はなく、計画がとん頓挫していたことをする。幸いだったのは、森が用意していいた土地に建設された洋館があり、そこに住むことができたことだ。しかし、職の宛がないということは経済的に困窮することは明らかで、日本側の関係者で骨を折り、特に勝海舟が私財から千円を拠出した。勝は森、杉田玄端らに相談されて、援助を申し出たようだ。この当座の資金により、渋沢栄一の東京会議所がウィリアムを雇用し、森の私有する商法講習所の講師として貸し出すという形式で仕事が開始できるようになった。ホイットニー家の知らないところで森は色々手を打っていたようだが、詳細を知らなかったであろうクララは当初随分森を恨んでいたようだ。しかし、後年は森有礼や森夫人との交流もあったようなので、どこかで誤解が解けたのかもしれなが、詳細は本書では書かれていない。勝海舟と知己を得たことにより、勝家との交流もでき、特にクララは勝の三女である逸子とは親友となった。

その後の一家

森有礼の私的事業として始めざるを得なかった商法講習所は1875年に東京府の所管に移されることになり、これに伴って所長に就任した矢野二郎とホイットニー一家(特にクララ)とは折り合いが悪かったようだ。クララに日記によると、矢野のウィリアムに対する言動に腹を立てている様子が書かれているという。その矢野の下で動いていた商法講習所から1878年6月1日にウィリアムが解雇されることが決定された。この解雇の遠因としては西南戦争での多額の戦費が財政再建を促したことが背景にあるようだが、ホイットニー一家としては矢野により窮地に落とされたと思っても仕方のないことであろう。

その時の住居が商法講習所の施設であるので、そこを出なければならず、一時的に森有礼が永田町に持っていた家屋に引っ越し、クララが森夫人にピアノを教えることを家賃とすることになった。一方ウィリアムも津田仙の経営する学農社の分校という形で開校した夜間簿記学校で教え始めた。兄のウィリスは家計を助けるために、金沢の師範学校に職を得た。母のアンナも良家の子女に英語を教えていたが、森の紹介で新たな生徒を得た。

この後再び勝海舟が援助に立ち上がった。勝が東京府に拠出していた千円の残りの六百二十六円を取返し、緊急の必要に当てさせた。そして、勝家の屋敷に別棟を建設して住まわせることで決着した。

この時一家がアメリカに帰国しなかったのは、クララの日記によると、「父は実業とは完全に縁が切れている」、「年齢の関係で新しい仕事を見つけるのは難しい」、「家も5年契約で貸している」、「帰国する旅費もない」ということが挙げられている。

離日

ホイットニー一家の離日は父のウィリアムが1879年の12月12日に先発して、太平洋航路で帰国し、1880年1月26日に母アンナと子供たちはヨーロッパ周りのルート(パリとロンドンを経由して)でアメリカに帰国した。この帰国に際して勝海舟は旅費の援助や多額の餞別を贈ったようである。

再びの来日

一家のアメリカでの落ち着き先はウィリスの入学したペンシルヴァニア大学のあるフィアデルフィアであった。ここでクララは資産家のウィスター・モリスの夫人のメアリと知己を得、夫人が日本行きの旅費の援助を申し出てくれたのだ。夫人のメアリは敬虔なフレンド派キリスト教徒で、慈善活動に熱心であった。特に夫人は海外での伝道に関心を持ち、それが非キリスト教女性の地位の向上につながると考えていた。この夫人の考えとクララの望みが一致したのが、援助を申し出てくれた理由のようだ。

一行の旅程は再びヨーロッパ周りのルートであった。それは1882年4月12日であった。ヨーロッパ周りの旅程にしたのはウィリスがエディンバラ大学での学位申請を希望していたという理由があるらしい。しかし、この旅程中、父のウィリアムが1882年8月30日にロンドンで亡くなった。彼ら一家が横浜経由で東京に到着したのは11月20日であった。最初宣教師のウォデル邸に逗留したのち、勝手知ったる元の勝屋敷内にあった家に戻った。ここで十九歳になった勝家の三男梅太郎に再開し、その成長ぶりに驚いたとがクララの日記に記されている。そして、三年後梅太郎と結婚することになる。

日本に戻ってから母親のアンナの体調がすぐれなくなり、1883年4月17日に他界することになる。このことはクララに深刻な影響を与え、激しい悲しみに打ちひしがれたが、周囲の人の優しい励ましに救われたことも確かだろう。

その後

クララの兄のウィリスはキリスト教徒精神に則った赤坂病院を建設し、献身的な活動で日本の医療史・キリスト教徒史の両方で記憶されているという。また、妹アデレードはイギリス人の牧師と結婚し、自らも活発に布教活動に従事したが、1896年28歳の若さで亡くなった。

著者はあとがきで、1900年にクララが梅太郎のもとを離れ、アメリカに6人の子供と帰ったと記しているが、その詳しい経緯に関しては触れていないので、詳細は分からない。