隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

書評稼業四十年

北上次郎氏の書評稼業四十年を読んだ。

これは北上ラジオの特別編で紹介されていた。

本の雑誌 Presents 北上ラジオ 特別編 - YouTube

上のラジオでも言及されているし、本書のあとがきでも書かれているが、かって中間小説というカテゴリーがあった。私がその言葉を聞いて、意識していたのはたぶん高校生とか大学生の頃なので、35~40年ぐらい前になるのだろうか。しかし、いつの間にか中間小説という言葉は使われなくなっていた。中間小説いう言葉が使われなくなっていたことなど全然気にしていなかったのだが、北上氏が「中間小説」という言葉を持ち出して、久しぶりに思い出した次第でる。

中間小説というのは私の理解では、純文学と大衆文学の中間の小説という感じでとらえていたのだが、本書によると「純文学の作家が書く娯楽小説」という位置づけらしい。たぶん私が認識していた中間小説というのは、中間小説の末期の頃で、そのころには「純文学の作家が」とい縛りはもうすでになかったのではないかと思う。

この中で北上氏が指摘しているのだが、「小説が古びるのは、小説中の風俗が古くなるからではなく、主人公を支える行動原理が古くなるからだ」と書かれていて、これは至極まっとうな指摘なのだが、はっと気づかされた。ここで指摘されている通りで、日本においてはあのバブルの時代を境に、その前とそのあとでは明らかに我々の考え方には大きな差が生まれていて、だからこそ主人公に対する共感する点も変わってきているはずである。なので、あの境の前に書かれ膨大な小説群の中で、今まで生き残ってこれたものは本当に少ないということを感じる。そして、それと関係するかどうかはわからないが、いつの間にか中間小説というジャンルはなくなってしまった。中間小説がなくなり、それははエンターテイメントというジャンルとして生き残っていくのだ。もう、完全にどのような分野の書き手であるかは関係ない。

本書の前半の方に大森望氏とのエピソードが色々書かれていて、二人の仲がいいから全く遠慮なく書かれていると思うのだが、「とにかく大森望は威張っていた」というのが面白い。「いきなりのお座敷に大変緊張しとあるが、どこが緊張なのだと言いたくなる」とか、鏡明氏との対談の時のエピソードで、「大森望の態度、口調が私の知っているものではないのだ。何なんだこいつ、とびっくり」と書かれている。

ちょっと気になったのは、昔NHKのBSで放送されていた週刊ブックレビューの件だ。この番組は各地で公開録画をやっていて、「そういうときの司会はきまって児玉清だった」と書いているのだが、あの番組は開始当初から、司会はスタジオ収録も含めて、児玉清だったのではないのだろうか?