隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

公卿会議―論戦する宮廷貴族たち

美川圭氏の公卿会議―論戦する宮廷貴族たちを読んだ。

藤原道長の日常生活で倉本先生が書かれていた平安貴族に対する現代人のイメージはどうやら50年前に土田直志鎮という歴史学の先生の言葉がオリジナルのようだ。摂関政治期には、重大な問題があれば、陣定という会議が開催され、そこでの出席者の意見は定文という記録に残される。陣定で意見が分かれた場合は、多数決をとることはなく、誰はどういう見解だったかということがはっきりわかるように書かれる。その定文が天皇や摂関に奏上され、決裁を仰ぐことになっていた。

本書は宮廷貴族の会議の変遷を追った書である。

律令制成立以降

太政官というと、太政大臣をトップとした官僚の組織を思い浮かべるかもしれないが、太政大臣は常設のポストではなく、どちらかというと名誉職的なポストだ。太政官のトップは左大臣で、以下右大臣、内大臣、大納言、中納言、参議といった官職があった。これらの官職の貴族は公卿と呼ばれた。これらの太政官が行うのが太政官会議である。

一般的な政務は弁官申政という形式で行われ、諸司(中央の役所)諸国(諸国の国司)が解文という上申文書を弁官に提出する。弁官はそれを受理し、審理の上、弁官の下級役人である太政官に読み申す。または、中務・式部・兵部の三省のさかんが上申を行いたいことを申し出、三省の役人が文書を太政官に読み申す。これらを三省申政と言い、官人が賜る位階や禄についての内容や、官人の考選(勤務評定)・叙任(処遇)に関する手続きに関してである。律令制のもと太政官会議がどのように行われたかを示す資料はほとんど残っていない。

摂関政治の時代

9世紀末から10世紀初頭に、諸司諸寺の長官(別当)に公卿・殿上人を任命し、それらを直接掌握・指揮する制度ができた。これを殿上所充と呼ばれている。そして、10世紀以降、殿上所充に加え、行事所という制度ができ、公卿がそれぞれの組織や行事の実務を分担するようになった。行事所は、諸寺社行幸、大嘗会、造内裏などの臨時に行われる国家的な行事に際して設けられた。納言以上の公卿を上卿(筆頭の者)とし、行事の経費調達、準備、後始末などが行われ、その実行のために上卿は天皇、摂政と連絡を取り合って、下位の貴族と会議を開いて諸事に責任を持った。更に11世紀になると、諸司諸寺別当、行事所など実務を分担する上卿の決裁が、従来の決裁を凌駕していき、公卿たちは太政官政務全体を把握する機会をほぼ失うことになった。つまり、公卿たちが案件の決裁に「参議」し、一体となって「合議」する機会もなくなったのである。

摂関政治期にも、最も重要な会議の議題は叙位・徐目であるが、基本的には天皇の前にすべての公卿全員が招集されて行われた。ただし、叙位・徐目は天皇と執筆大臣によって決定され、その場で議論されることはなかった。幼帝の場合は摂政の直蘆(内裏の宿所)で行われ、天皇の代わりに摂政が人事の決定をした。また、勤務評価である受領功過定という公卿会議があった。内裏の左近衛陣座で開かれたfため、この陣座での公卿会議を一般に陣定じんのさだめと呼ばれた。受領功過定ではかなり実質的な議論がなされ、意見統一がなされなければならなかった。

院政のはじまり

白河天皇即位の頃

後三条天皇には権中納言藤原公成の娘茂子との間に貞仁親王(後の白河天皇)がいた。しかし、茂子は康平五(1062)年、後三条天皇が即位する前に亡くなった。治暦四(1068)年に後三条天皇は即位し、貞仁親王東宮になった。延久三(1071)年後三条と源基子との間に第二皇子実仁親王が生まれた。後三条天皇は延久四(1072)年東宮貞仁親王に譲位した。貞仁親王は即位し、白河天皇になる。東宮は異母弟の実仁親王がなったが、後三条は翌年延久五年五月七日に亡くなった。新天皇の関白は引き続き教通であったが、その死去に伴い、承保二(1075)年子頼通の嫡子の師実が就任する。白河天皇には、源顕房の娘賢子が師実の養女となり入内し、中宮となっていた。白河天皇は賢子を寵愛し、承暦三(1079)年待望の皇子善仁が誕生する。

堀川天皇即位の頃

後三条天皇は白河の後、実仁を即位させることを企図し、更に実仁の同母弟の輔仁も誕生していたので、白河の子孫に皇位を継がせようとは考えていなかった。しかし、白河は我が子が生まれたので、その子に皇位を継承させたいと思い、関白師実に接近する。応徳二(1085)年、東宮である実仁親王が疱瘡で急死する。この時善仁は7歳であったが、輔仁は13歳であった。後三条の母であり、白河の祖母である陽明門院は健在で、事あるごとに後三条皇位継承の意思を持ち出していたので、白河天皇は簡単に我が子を皇太子にしにくい状況であった。ようやく翌応徳三年、白河は8歳の善仁を皇太子とし、即日位を譲った。これが堀川天皇である。そして、新帝の摂政には師実が就任する。堀川は師実の養女が生んだ子であり、師実にとっては外孫に準じることになり、都合がよかった。この体制になったときに、公卿会議は院御所でも開かれるようになった。ただし、院御所で開かれた初期の頃の公卿会議は院の家政的問題*1、あるいは院近臣擁護*2を強行する場合に開かれていたようで、白河上皇は政治的主導権を十分に発揮していはいなかった。

寛治八(1094)年、藤原師実は関白を嫡子師道に譲った。この時師通は33歳、堀川天皇は16歳だった。師通は父師実と比べると白河上皇に対しては強硬であった。例えば、嘉保二(1095)年十月延暦寺日吉社の強訴が起こったとき、師通は内裏の自分の控室である殿下直蘆で公卿会議を招集した。しかし、師通は承徳三(1099)年六月38歳で急死する。

師通の嫡子の忠実はまだ22歳で、権大納言であり、大臣になっていなかったので、すぐに関白にはなれなかった。また、忠実が天皇外戚でなかったことも影響した。忠実は父の死後の二か月後やっと内覧になる。忠実がようやく関白になれたのは、父の死から6年後の長治二(1105)年だった。

鳥羽天皇即位の頃

忠実最大の危機は堀川天皇がなくなった嘉承二(1107)年7月にやってきた。新たに即位した鳥羽天皇は五歳で摂政が置かれることになる。鳥羽天皇の母は閑院流藤原氏の実季の娘苡子であった。実季も苡子もすでに他界してい たが、苡子の兄の東宮大夫公実が外伯父として、その摂政の地位を望んだという。とくに公実は「いまだかつて天皇の外祖父でも母方のおじでもない人が、御即位にさいし て摂政となったことはございません」と白河法皇にせまったというのである。堀河天皇のもとで 関白をつとめていた忠実は、師実の孫にあたるのだが、すでに堀河の外戚でもなく、鳥羽天皇外戚でもなかった。公実は関白忠実が摂政となることを阻止しようとしたのだ。そのため、白河法皇は誰を摂政にすべきか悩んだ。この時醍醐源氏権大納言源俊明が強引に法皇の元に参上し、摂政の決定を迫ったという。俊明は忠実の摂政就任を促したわけではないが、白河法皇は堀川天皇の関白だった忠実を鳥羽天皇の摂政にした。

摂政の人事のような重要問題は、摂関期以来天皇のウチミ、すなわち天皇及び父上皇、国母、外戚によって決められてきたが、今回は法皇の近臣である源敏明が、外戚でもないの介入したことになり、画期的なことだった。

また、鳥羽天皇即位のときの忠実の摂政就任は、ほかにも重要な問題を含んでいた。公実が外戚として摂政を望んでいたということから、忠実自身が補任の宣命*3には明確に「上皇の仰の由」(『殿暦』)を載せよと指示し、実際にその宣命には「太上天皇乃詔久」(『朝野群載』)と書き出されている。この宣命により、摂関が上皇の権威によってその地位についたことになり、上皇の権威を著しく高める結果となった。このことはまた、外戚の重要度を下げることになり、そして、外戚ではない摂政が登場しことで、摂関の地位と外戚が切り離されることになった。そして、相続という形で摂関家が登場する契機となったのである。

鳥羽天皇即位後、白河法皇は内裏の「陣之内」に院御所を移し、武士に朝夕の内裏警護を命じた。幼帝の地位を脅かす輔仁親王の周辺の動きを警戒していたのだ。そして、永久元(1113)年輔仁親王の護持僧仁寛らが流罪となった。仁寛は輔仁親王勢力の中心人物である左大臣源俊房の子で、嫌疑は天皇への呪詛である。この事件で輔仁親王は失脚し、白河法皇に対抗できる勢力は消滅した。

嘉承二(1107)年以降は大寺社の騒乱や強訴などの「国家大事」においても院御所議定が開催され、対策が協議されるようになった。それは幼帝鳥羽を即位させたことによるところが大きいという。また、叙位・除目に関しても院が強く介入するようになり、人事権が事実上院に握られてしまうことになった。叙位・除目への介入は、要職が記された「任人折紙」という非公式の文書が院から摂政や天皇に渡されることにより、行われた。

*1:童相撲、上皇の春日御幸、閑院と大炊殿への上皇の転居、上皇の岩清水八幡御幸

*2:源義家擁護

*3:天皇の命を伝える文書