隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

気候で読み解く日本の歴史―異常気象との攻防1400年 (1)「奈良時代から室町時代まで」

田家康氏の気候で読み解く日本の歴史―異常気象との攻防1400年を読んだ。長くなったので2分割とした。後編はこちら

本書を読むと日本では本当に昔から天候不順を契機に飢饉が発生し、多くの人々の命が奪われてきたことに驚く。それから比べると、農業技術の発展もあるだろうが、近年日本で天候不順により飢饉が発生することはなく、この観点からは安定した時代と言える。

奈良時代

旱魃

続日本紀が記録した697年から791年までの95年間の記述からは旱魃が多く発生し、それに伴う飢饉が発生していたことがわかる。当時の政府による旱魃対策は、雨乞いの祈祷、税の軽減、被害にあった公民への救済米(振給)が三本柱だった。寺社による雨乞いの効果がないと、天皇の不徳ということになった。徳がないから天災が起こるという理屈だ。その場合は徳を示すため、恩赦を行い、獄に繋がれていたものが解き放たれた。このような恩赦は平安時代まで続いた。

我々が現在目にしている平野に広がる水田というのは灌漑施設が充実していく室町時代以降で、奈良時代から平安時代の灌漑設備は貧弱なものだった。降水量の変動に備えて農業用水を蓄えておくためには、溜池が必要で、溜池のタイプとしては谷池と皿池がある。前者は山沿いの河川をせき止めて作るもので、山池ともいわれる。皿池は平坦な土地を掘り、周辺を堤防で囲んだ文字通りの池で、高度な土木技術が要求される。そのため、奈良時代から平安時代にかけての良田の多くは水利がよい山から流れる川沿いに位置していたと考えられる。灌漑施設の重要性は、班田収授法が崩れていく原因となった三世一身の法は新たな開墾だけではなく、灌漑設備の修理も対象としていたことからもわかる。

森林破壊

飛鳥時代から平安時代にかけて多くの人は竪穴式住居に住んでいた。これに対して、飛鳥時代掘立柱建築が用いられるようになる。これは地面を掘って、太い木材を柱として埋め込む工法で、内部は土間あるいは地面より上部に床を張るもので、後者の代表的例に高床式倉庫がある。6世紀にはいると豪族は自身の邸宅を掘立柱で建て始めた。

しかし、掘立柱建築の場合、地中に礎石を置かず柱を直接土壌に埋め込むため長い年月を経ると柱は腐っていき、骨組みが不安定になる。このため掘立柱建築物は周期的に建て替えねばならなかった。おそらく20年ぐらいが寿命であったと考えられる。

当時は遷都、巨大仏教建築物、貴族の屋敷などで森林資源が破壊されたことが推測される。森林には水源涵養機能があり、それらは水資源貯蔵、洪水の緩和、水量調整、水質浄化というものだ。奈良時代には旱魃が連続しておき、畿内は恒常的に水不足に悩まされていた。高温乾燥の影響もあっただろうが、森林伐採により水源涵養機能が失われていたという側面も考えられる。

平安時代

平安時代の約400年間も何回か気温が低下した時期もあるが、長期的には奈良時代と同様に高温乾燥の気候が続いた。日本後紀続日本後紀日本文徳天皇実録、日本三大実録が平安時代国史だが、異常気象、地震、飢饉、疾病の発生の記録をしている。

平安時代に入ってから最初の全国規模の飢饉は延暦16(797)年から延暦18(799)年のもので、この時は長雨と洪水が関係している。大同年間(806~810年)になると、飢饉の原因は日照りと洪水の併記となっている。弘仁年間(810~824年)になっても、日照りの気候が続く。800年代前半は旱魃、840年代後半から長雨による飢饉が見られ、860~870年代に低温傾向が表れている。

旱魃の対策も奈良時代と同様で、雨乞いの祈祷と読経だ。飢饉の実質的な救済策は税の軽減と被害者への食料給付だ。また、畑作の奨励も行われた。

平安時代初期、朝廷は平安京建設と東北地方への軍事遠征という2つの大きな事業により財政的に困窮した。平安京造営のため雑徭として駆り出された畿内の平民に対しては田租の半分を免除し、地元での庸と平安京での雑徭の2つを課せられた畿外諸国の平民については田租を全免した。平安京建設や東北北部への軍事遠征と財政的に苦しい中で、何度も飢饉が発生し、社会不安が生まれていた。旱魃により農民が耕作不可能になった土地を棄て逃亡することも頻発し、そのような流民は荘園の労働力にもなった。このことが律令制崩壊の原因にもなった。

鎌倉時代

寛喜の飢饉

天候異変は1220年代半ばから始まっていて、嘉禄二(1226)年の6月から7月にかけて長雨が降り、翌年も湿潤傾向が続いた。安貞元(1228)年になると、日照りと大雨という極端な現象が相次いだ。「百錬抄」によると加茂川が氾濫し、10月には東日本を巨大な台風が襲った。寛喜元(1229)年は前半が旱魃、後半が湿潤傾向だった。藤原定家の「明月記」には、寛喜二(1230)年6月17日(新暦で7月28日)には「早朝涼気あり。薄霧秋のごとし。……夜涼しく綿衣を著す」と書かれている。また、吾妻鏡には同年6月9日(新暦7月20日)に、武蔵で落雷、美濃で降雪があったとの報告を記している。冷夏は続き、「明月記」には7月15日(新暦8月24日)「涼風仲秋の如し。昨今萩の花盛んに開く」とあり、吾妻鏡にも7月16日(新暦8月25日)に「霜が降り、まるで冬の天気のようであった」と書かれている。この後一旦暖冬となるのだが、寛喜三年三月には厳しい寒さがもどってきて、春先以降に深刻な飢饉を引き起こした。「立川寺年代記」には寛喜三年について、夏の全国的な飢饉で人々は馬牛を食べるほどの惨状で、諸国で鼠が大量発生し、五穀の実を食べつくしてしまい、全国でおよそ三分の一の人が死んだと記している。

正嘉の飢饉

天候異変は建長八(1256)年八月の大雨と洪水に始まる。台風が到来し、水田に被害が出た。また、京都では赤斑瘡(麻疹)が発生し、後深草天皇も罹患し、雅尊親王は病死した。赤斑瘡の流行は鎌倉まで拡大し、北条長時の子義時も患っている。そして、9月になると赤痢が流行し、北条時頼も罹患した。

康元二(1257)年、「立川寺年代記」には「大干ばつ、大地震、大疫病、餓死人無数」と記されている。翌正嘉二(1258)年には冷夏となり、六月に京都で「二月や三月のように寒い日が続き、全国で五穀不熟で、餓死者その数を知らず」と記されている。正嘉三年になっても全国規模の飢饉が続いた。

鎌倉時代に諸国で作成された土地台帳「太田文」から1150年から1280年にかけて全国各地での人口減少がみられる。東日本の人口がより減ったようだ。特に常陸での人口減少が大きいが、餓死者だけでなく、逃亡も含まれている。また、大飢饉の中で治安も悪化し、鎌倉幕府は強盗、山賊、海賊への対策を強化しているが、牢獄が犯罪者でいっぱいになったようだ。

農業技術の発展

鉄製農具

9世紀ごろでは鉄製農具を持つ農民は8人に1人の割合で、地方役人・富裕農民が零細な農民に鉄製農具を貸し与えていた。1200年代後半には風呂鍬、風呂鋤、鎌、斧といった鉄製農具が全国の農民に普及した。これは踏鞴炉・鞴の採用や炉の大型化により達成された。また、鋳物師いもじがその普及に貢献した。鋳物師という職能集団が全国に散在し、それぞれの国内で自由な通行権、商権、鋳造権を確保し、鉄製品の普及を担った。

家畜の利用

家畜が農耕に利用されるようになるのは平安時代後期からで、西日本は牛、東日本は馬が鍬を引いた。1280年代までに中規模な農民の田畑で見られるようになる。

平安時代末期、肥料と言えば灌木を焼いた灰が主流であったが、鎌倉時代に入ると、農耕家畜の普及と相まって、家畜の排泄物の利用が増えていった。

灌漑設備

灌漑装置としての水車(揚水車)が機内で普及していったのは鎌倉時代で、全国に普及するのは鎌倉末期から室町時代に入ってからだ。

室町時代

1330年から1420年にかけては飢饉の頻度は減少し、まれに旱魃が原因で全国規模での飢饉が発生した。しかし、1420年を過ぎたあたりから、冷夏・長雨といった気候が頻発し、およそ10年に一度の割合で全国規模の飢饉が発生した。

正長の土一揆

応永三十四(1427)年の六月から八月にかけて、日本各地で大雨・洪水が発生した。七月京都では風雨洪水のため、三条河原付近の小規模住宅が流され、水位は1.5メートル上昇した。また、陸奥、上野、会津豊前でも記録が残っている。この年の大雨による凶作は、翌年の飢饉を深刻化させた。正長元(1428)年には三日病という流行病が京都、越中、上野で発生した。また、この年も長雨で、伊勢で「当年飢饉、餓死者幾千万と知れず、鎌倉でも二万人が死んだと聞く」、会津で「大雨洪水、諸国悪作大飢饉」、下野で「飢饉洪水」という記録が残っている。これが 正長の土一揆の遠因となった。(正長の土一揆参照)

嘉吉の徳政一揆

永享九(1437)年には冷夏・長雨が全国的に発生する。京都では「霖雨天下不熟」、越中で「夏に霖雨長く降る、天下不熟」、会津で「大飢饉、特に関東奥羽で人多く死す」と記録に残る。翌年には飢饉は深刻化し、京都では「去年霖雨、天下五穀不登、この年飢饉、餓人道に満つ。飢饉疾病洛中に死体山の如し」、越中で「飢饉、大疾病、洛中に死骸山の如し」と記録が残る。1440年代になっても状況は変わらず、嘉吉元(1441)年五月に鴨川の洪水があり、四条と五条の橋が流された。八月には台風があり、「天下一同ハシカ病」と疾病の流行もあった。こうしたことが原因で嘉吉の徳政一揆がおきた。(嘉吉の徳政一揆参照)

長禄の土一揆

天候不順は1450年代も続き、享徳元(1452)年は京都から東北地方まで日本海側で冷夏・長雨となった。享徳三(1454)年になっても湿潤傾向は変わらず、享徳の土一揆が発生する。京都での長雨傾向は康正三(1456)年まで続いた。翌長禄元(1457)年十月、京都の西南方向の流民が蜂起し、拠点を東寺に置いた。長禄の土一揆の発生である。

長禄・寛正の飢饉

長禄三(1459)年から寛正二(1461)年にかけて、今度は長い旱魃と台風の到来による凶作が続いた。長禄・寛正の飢饉である。京都では1460年の冬から翌年の三月まで毎日3000人から6000人の人が餓死し、死者は四条や五条の橋の下に穴をいくつか堀り、一つの穴に1000人から2000人の遺体を埋めていた。この頃、京都や周辺の飢餓者が幕府や寺社の行う救援を期待して大挙して京都に流入し、その数は数万にも及んだという。(寛政三年の徳政一揆参照)