隠居日録

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2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

気候で読み解く日本の歴史―異常気象との攻防1400年 (2)「江戸時代」

田家康氏の気候で読み解く日本の歴史―異常気象との攻防1400年の後半。

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江戸時代

寛永の飢饉

寛永十三(1636)年から旱魃による凶作の記録が出てくる。寛永十五(1638)年から寛永十八(1641)年にかけて、畿内から西日本にかけて家畜牛の大量死が記録されており、津藩伊賀奉行によると、寛永十八年末の牛の総数6511頭のうち2231頭が死に、967頭が罹患、無事な牛は3313頭だった。西日本の牛の大量死は、耕作の遅れ、耕作地の放棄につながった。

寛永十七年六月十三日(1640年7月31日)に蝦夷駒ケ岳が噴火し、津軽では降灰により大凶作となった。秋田でも八月に雹、加賀藩で長雨・寒冷と影響が出た。会津では六月に大雨と雹が降り、弘前では通常春に咲く梨が八月上旬になりようやく開花しているので、噴火前から寒冷傾向があったようだ。

寛永十八(1641)年になると、西日本まで長雨・寒冷傾向となり、肥後、佐賀、豊後や中国地方の美作で水害が発生し、備後で餓死者多数が発生する。東日本でも状況は悪く、関東では年初めから低温傾向が現れ、正月一日から大雪となり、春まで7回も大雪があったことが記録されている。また、7月下旬から長雨が続き、時に大雨、霜も降りた。常陸ではタネ麦の確保も困難になり、農民の逃散や身売りが横行し、「已午みんまの餓死」と語り継がれた。

寛永十九(1642)年には春から夏にかけて日本海側に冷害が起きた。

寛永の飢饉が、軍事体制の維持から撫民という平時の民生重視への移行のきっかけとなった。飢餓対策については、幕府は各大名に逐一指示を発した。本来は所領の施政は藩法によって各大名に委ねられている建前になっているが、寛永十二年の武家諸法度の第十四条に「国郡衰弊せしむべからず事」とあり、危機管理の観点から幕府が高札を掲げ、幕令を発すると「天下の御仕置」と認識され、各藩は追従した。寛永の飢饉に際しては、幕府は情報把握を徹底した上で、農村での混乱回避を第一に考えた。大名に対して、農民の私益を抑止し、安定した農業を営むように促した。軍事動員や普請での農民使役は、寛永の飢饉以降激減する。そして、飢饉に際しては、武士から町民・農民に至るまで倹約と農村での相互扶助で乗り切ろうとした。零細農民が所有農地を豪農に売却する動きを封じる田畑永代売買禁止令は江戸時代を通じて維持された。

元禄の飢饉

弘前藩に残る「耳目心通記」によると、元禄8(1695)年の年明けから雪が毎日振り寒さが続き、2月になると東から冷風が吹き寒気が残ったため、種籾を水につける作業が遅れた。4月になっても草木の新芽が出ず、5月上旬には毎日ヤマセが吹き、中旬になると雨が降り、6月まで多雨傾向になった。7月3日(新暦8月3日)に霜が降り、稲穂が大打撃を受け、ヤマセが吹き止まず、稲が実ることはなかった。9月には里に雪が降った。

弘前藩では総石高24万石とされるところが、その年は米と雑穀がそれぞれ4万石しか取れず、凶作が噂されていたにもかかわらず、例年通り五月初めから七月にかけて御蔵米は売却されていた。翌年公儀のまとめでは、領内の餓死者・病死者を合わせた数は5万人とされているが、市中ではその倍の10万人と噂された。

元禄8年の凶作が最大であったが、寒冷な気候は元禄15(1702)年まで続いた。盛岡藩では元禄14年と15年に収穫が不足し、2万人以上の餓死者が出た。盛岡藩支藩である2万石の八戸藩では元禄12年に1万2千石、元禄15年に1万7千8百石と減少した。

元禄の飢饉に際し、東北地方の各藩は実態をひた隠し、幕府へ正しく報告していなかった。例えば元禄8年時に餓死者5万人と推定されていた盛岡藩は、餓死者0と報告している。これは国郡衰弊の責任を問われることを恐れたからで、自領内での仕置がうまくないと報告された藩には、改易の危険があったからだ。

幕府の飢饉対策は、寛永の飢饉対策と同様で、撫民の支持と倹約令を中心とした全国令を発するものだった。具体的には、酒造りを前年の5分の一とする指示や、江戸での買い占めの禁止、飲酒制限等などである。徳川綱吉は殺生の禁止の徹底を図っていたので、八戸藩は元禄八年猪・鹿・猿の殺生・肉食の禁止令を出し、飢饉の惨状が一層ひどいものになったことが推測される。

享保の飢饉

享保の飢饉(享保17(1732)年から享保18(1733)年)は九州を中心に西日本でセジロウンカが大量に発生した蝗害によるものだった。筑前の博多で発生し、四国・中国・近畿まで及んだ。九州北部の諸藩、四国、中国では年貢収納石高が平年の1割程度になったところもある。幕府に報告された餓死者は一万二千百七十二人であるが、これも被害を少なく報告した可能性がある。

将軍吉宗の許で幕府は迅速に対応し、蝗害発生直後の享保17(1732)年7月に幕府領での扶持米の貸与を開始し、年貢収入が半減以下の大名旗本への拝借金の貸し出しと、大坂からの回米を対策の主な柱とした。45の大名、旗本、寺社に最大で2万両が貸し出され、返済期間は5年で無利息の条件だった。蝗害にあった地域には27万石以上の米が回米されたが、これは無償で提供されたわけではなく、諸大名が購入する形をとった。幕府が迅速に対応したことや、冬麦が豊作だったことから、享保18(1733)年5月には飢饉状態から回復した。

宝暦の飢饉

宝暦5(1755)年の飢饉はヤマセによる夏の天候不順と冷害によるもので、東北地方、特に弘前藩盛岡藩八戸藩を中心に飢饉が起きた。弘前藩は本田・新田合わせて24万3353石とされているところ9万5410石が損毛となり、被害率は4割。盛岡藩では本田・新田合わせて24万8千石のうち、水害も併せて18万6623石が損毛となり、被害率は75%となった。

飢饉への対応も各藩で異なっていた。弘前藩では前年の豊作により町中に残っていた米を買い上げて、藩外への流出を阻止し、酒・菓子・餅・飴類の製造を禁止した。八戸藩では種籾は地域同士の相互扶助で確保するように指示しただけで、夏場に穀物価格が上昇すると、余剰米は売却された。盛岡藩仙台藩も江戸や大阪という巨大消費地への回米を優先させた。幕府は弘前藩に1万石の拝借金を貸し出しただけだった。

八戸藩の人口推移をみると宝暦4年2月が6万5361人が宝暦6年2月には4万5367人(逃散を含む)となった。盛岡藩の犠牲者は宝暦6年のまとめで4万9594人、仙台藩の犠牲はおよそ3万人だった。

天明の飢饉

天明三(1783)年は典型的な冷夏の年であった。弘前では梅雨明けしていないし、関東でも梅雨明け後の夏の到来は7月終わりから8月初めの5日間だけ、8月6日以降は九州でも天気がぐずついていた。凶作となったのは東北地方だけではなく、佐賀県でも「大不作、飢人村々にこれあり」と記録されている。天候不順は天明六(1786)年にも発生していて、弘前では梅雨明けせず、新潟や日光では夏の天気は8月中旬のわずか1週間しかなく、関東以南でも梅雨明けは遅れ、8月になってからであり、7月の日照不足で稲の生育不良が想定される。

天明の飢饉における餓死者の大量発生は天明三年の秋から翌年の春にかけてがピークで、弘前藩はこの間餓死者が10万2千人、八戸藩では宗門改めを天明四年五月に行ったところ3万105人の餓死・病死であった。正確な時期は不明だが、盛岡藩では餓死者9万2100人、仙台藩では20万人とある。

天明の飢饉の際幕府の老中は田沼意次だった。幕府は天明三年12月から一年間、凶作が激しかった弘前藩会津藩三春藩・相馬藩に拝借金を貸し与えたが、関心事項は江戸や大坂での米価格の上昇だった。天明四年1月から9月にかけて米殻売買勝手令を出し、米問屋でなくても江戸への米の搬入と販売を行えるように自由化した。これにより、江戸への回米が多くなり、打ちこわしの暴動の広がりを抑えようとしたのだ。この政策により天明三年の危機的状況は終息した。しかし、天明六年にふたたび天候不順になり、江戸では7月12日(新暦8月7日)からの台風による豪雨が数日続き、利根川の堰が決壊して大洪水となった。洪水は18日まで続き、印旛沼手賀沼干拓は頓挫した。翌月25日に徳川家治が死去すると田沼意次は失脚し、老中辞任に追い込まれた。

大都市での食糧価格の上昇は天明六年の秋から再び起き、このため幕府は天明三年の時のように米殻売買勝手令を9月から12月に再び発し、江戸への回米を促進させた。しかし、翌年も食料価格の上昇は続き、投機的な売買もあって、需給のバランスを崩し、庶民の不満が高まった。五月に大坂で発生した打ちこわしは九州から関東に伝播していった。江戸幕府は都市部での打ちこわしの頻発に衝撃を受け、根本的な政策の転換を余儀なくされた。20万両を対策費としてあて、芝・麹町・深川・浅草で窮民に米6万俵と金2万両を与えることで暴動の鎮静化を図った。

抜本的な改革は田沼グループとの権力闘争に打ち勝ち、老中首座に就任した松平定信により実行された。いわゆる寛政の改革である。定信は大商人による私的な囲い米を摘発した。1787年から1788年にかけて米問屋の売買や在庫を徹底的に調査し、米価を2割下げるようにとの御触書を出した。また、米問屋ではない江戸の町人を勘定書御用達に任命し、米価低迷時に買い支え、米価上昇時に売り崩しを行う価格安定制度を設けた。また、幕府の囲米・城詰米だけではなく各藩の都市や農村にある社倉の充実を図った。寛正元(1789)年9月幕府は大名に向けて領邑囲穀令を発し、備蓄とは飢饉に対しての「天下の御備」と国家的なものとの位置づけ、幕府への上納もあり得ると定めた。また、寛正二(1790)年に旧里帰農奨励令を発し、膨れ上がった都市の人口を農村に戻そうとした。

天保の飢饉

天保の飢饉は天保3(1832)年から天保10(1839)年までつづいた。特に天保4(1833)年と天保7(1836)年に深刻な飢饉が発生し、東北地方だけではなく、北関東や九州でも収穫に影響が出た。天保の飢饉での餓死者・疾病死者は東北地方全体で10万人前後、全国で20万から30万と推定されている。天保の飢饉は7年間に渡っているが、天明の飢饉と死者数を比べると少なくなっており、寛政の改革松平定信が整備した飢饉対策が一定の効果を発揮したと考えられる。

しかし、都市部においては飢饉による米価格の高騰の影響が甚大で、都市部の下層民を直撃した。天保4年9月には早くも打ちこわしが発生する。幕府は江戸への回米を優先したり、米を自由売買にしたり、窮民対策として開放小屋を11か所築いた。天保7年の二度目の飢饉のときも諸国で都市部の打ちこわしや農村での一揆が発生し、幕府は酒造を減らす様に指示したり、御救小屋を設置し極貧者を収容した。

江戸への回米優先は上方において米入荷の不安を誘い、天保8(1837)年二月十九日夜元大坂奉行所与力大塩平八郎が蜂起する。大坂の町は5分の1が焼失し、270人以上が焼死した。

天保の飢饉の三年後天保12(1841)年水野忠邦天保の改革が始まり、華美な衣服の禁止や風紀の取り締まりといった倹約令、都市部の人口を農村に返す人返しの法を施行した。水野忠邦は物価引き下げの重要性を認識し、株仲間の解散を実行した。これは松平定信の行った統制経済から自由市場への開放の揺り戻しとも考えらる施策だ。

慶応二年の飢饉

慶応元(1866)年東北地方の冷害による収穫量の減少が引き金になり慶応二(1867)年に天保の飢饉から比べると軽微ながら飢饉が発生した。しかし、日米修好通商条約により安政五(1858)年の開国以来外国商人が日本の物資を高値で購入したことにより物価は上昇していた。こうした状況下に第二次長州征伐が開始され、幕府や大名は兵糧を確保するために倉に貯蔵された米を容易に市中に放出しなかったので、東北地方の冷害の噂が流れると、投機筋による米買い占めにより米価が上昇し、京都の白米小売価格は天保の飢饉時のピークが一石当たり銀187.7匁であったのに対し、慶応元年春には銀679匁、同年秋には銀1188匁と急騰した。米が高騰により四月の江戸での打ちこわしに始まり全国で打ちこわしや一揆が発生した。

第二次長州征討は幕府軍にとっては芳しくなく、兵站に不安が出たことにより厭戦気分が広がり、9月2日朝廷の働きかけにより停戦になる。これを機に江戸幕府の権威は失墜し、大政奉還、王政復古から明治維新へと時代が移っていくこととなった。