古川隆久氏の建国神話の社会史-虚偽と史実の境界を読んだ。
建国神話とは日本書紀の巻第二神代下にある、天照大神が孫の瓊瓊杵尊を葦原の中つ国に降させ、その後その子孫の彦火火出見が即位して、神武天皇になったという伝説である。そして、その中に「一書に曰く」という但し書きの後に、「天壌無窮」という言葉がある。「天壌無窮」とは「天と地が限りなく続く」という意味で、それ故に、天照大神の詔は「天壌無窮の神勅」表現されたようだ。もちろんこれは伝説であり、神話なのだが、明治以降から戦前の昭和前期に至る過程で、あたかも歴史的事実であると小学校などで教えられていた時代もあった。本書では、そのことが日本にどのような影響を与えたのかを考察している。
1881年の小学校教則綱領
これ以前は、神武天皇より前は神話であり、歴史ではないというごく当たり前の認識が教育界でも通用していたが、1881年5月4日付けで文部省が制定した「小学校教則綱領」により変化が始まった。この中で、小学校で教えるべき内容の具体例が定められ、日本の歴史として教える内容は「建国の体制、神武天皇の即位、仁徳天皇の勤倹、延喜天暦の政績、源平の盛衰、南北朝の両立、徳川氏の事績、王政復古の緊要の事実その他古今の人物の賢否、風俗の変更等の大要」と明示された。歴史を教える目的も、「天皇を敬い国を愛する意識を養うため」と明示された。このようになった原因は、急速な西洋化への反動で、国家主義的な歴史教育が始まったのはここからだ。
第一期国定教科書
小学校での教科書採用に関する汚職事件をきっかけとして、1904年度から政府は国定教科書制度を採用した。ちょうど日露戦争の時で、この時の国定教科書の建国神話の部分は授業1回分で、あっさりしたものだった。
第三期国定教科書
1921年から第三期国定教科書が使われ始めるが、日本史に関しては200ページから340ページに増え、構成も事件中心から人物中心に変わった。なぜ変わったかというと、歴史教育は事実や因果関係をきちんと教えることが大事であるが、興味を持たせることも必要で、道徳教育の側面もあり、善人と悪人をはっきり書き分けるとともに、国体についての観念を子供の頭に刻み付けることが一番重要であるからだと監修者の一人である藤岡継平は説明している。そして、それは無政府主義者や社会主義者などの危険人物が出てくることを防ぐためだという。つまり、反体制運動の撲滅である。これはロシア革命やドイツでの帝政崩壊の革命が念頭にあったようで、ここでもクーデータにより明治政府が成立したことを繰り返させたくないとことが頭にあったのだろう。
学校の外の状況
学校の外では、建国神話の意義を否定する議論はなかったが、建国神話を史実とみなすような議論もなかった。専門書も教員資格試験や参考書とされる書物さえ、建国神話の史実性を肯定しているものはなかった。建国神話は大事であるが、あくまで神話で史実ではないというのが常識だった。
そうなると教える側と教えられる側の間には矛盾が生じるのだが、それを解決する手段は存在せず、1932年に出版された「全日本師範学校附属小学校国史科主任諸先生の総動員的御執筆」による「即座に役立つ教授案・指導案の最高権威書」では、
殊に今日から学習する天照大神初め、其の他の神々様の行われた事柄は幾千年後の今日まで、なお新しく続いてゐる為に、私共が此れを疑はうと思っても、決して疑ふことの出来ないお話もあります。
というような説明をすることを勧めているが、これで子供が理解できたかどうかは不明だ。
満州事変後
天皇を大元帥として崇拝する事を組織を維持する前提条件とする軍部・在郷軍人会などは、天皇機関説の禁止を求めて運動を展開した。そして、政府は1935年8月3日に
大日本帝国憲法第一条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇是ヲ統治ス」とあるので、「大日本帝国統治の大権は厳として天皇に存することは明」で、「統治権が天皇に存せずして天皇を之を行使する為の機関なり」というのは「万邦無比なる我が国体の本義を誤るもの」
という声明を発し、天皇機関説を否定した。
満州事変を契機に一般社会でも建国神話の事実化が進んだが、学者が建国神話の実在性への疑問を呈することは容認されていた。また、国史教育での建国神話教育の強化は認識されていたが、事実ではない話を事実と教える矛盾を解決する方法はなかった。