隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

戦国大名の経済学

川戸貴史氏の戦国大名の経済学を読んだ。本書は戦国時代を戦国大名の領国経営という観点から概説したものだ。ちょっと意外だったのは、寺社の方には収支を記録した帳簿が残っているのだが、戦国大名に関してはそのような帳簿は残っておらず、もともと存在していなかったのか、たまたま文書として残っていないのかわからないという。なので、具体的に大名の収支を明らかにするのはほぼ不可能だと本書では指摘している。

それと、「何万人の軍勢」などと表現されることがあるが、この人数は戦闘員と兵站を担う非戦闘員を合わせた数なのだという。だから、実際に戦っていたのは、この人数の数分の一になるのだという。

本書を読んでいて面白いと思ったのは次の2点だ。

信長の楽市・楽座

楽市・楽座は信長の経済政策の先進性として語られたこともあったが、近年は先行する事例があったことも指摘されていてる。では、信長は支配下に置いた地域のすべてで楽市・楽座を実施したのかと言えばそうでもないのだ。つまり、必要な時・所では楽市・楽座を行い、そうで入時は旧来の既得権益を保護しているのだという。

信長が初めて楽市を布告したのは永禄十(1567)年十月に、美濃国加納である。この加納は斎藤氏時代から淨泉坊(円徳寺)という真宗寺院が支配しており、淨泉坊の監督下で一も存在していた。この時の楽市令は信長が斎藤氏を滅ぼして本拠地を岐阜へ移した後に発せられたもので、戦乱で荒廃した加納に復興を促す政策であったと考えられている。

一方天正元(1573)年八月浅井・朝倉を滅ぼし、天正三年柴田勝家を同国の北庄に据えて支配を確立したときには、「北ノ庄三か村の軽物座の事は、以前の通りの権益を安堵した」という文書を発行し、権益を保護している。

また、安土城を築城し、本拠地を岐阜から安土に移した信長は、天正五(1577)年六月に安土に楽市令を発布した。琵琶湖東岸には地域的な商人集団がいくつも存在し、熾烈な争いを繰り広げており、信長が想定したのは、そのような商人集団と権力が癒着することで経済成長が鈍化しないようにすることだったようだ。

北条市の年貢の収納は銭

16世紀に関東に拠点を移した伊勢宗瑞は征服した新たな所領において検地を始めた。この時、それぞれの土地から得られる利得を主に銭建てで数字化したというのだ。これが年貢徴収の台帳となり、実際には年ごとの作柄によって割り引かれたり、年貢以外の諸役負担が控除されていた。例えば、年貢以外の負担となる要素も銭建てて数値化し、それを「公事免」として控除し、その額は貫高の10分の1に固定されていた。これ以外にもいくつかの控除分が差し引かれた後の額が、北条氏の場合そのまま年貢の納入額(定免)とされた。この点は、皇女の後に更に割り引いて実際に納入する年貢(米)の量が決定された太閤検地とは仕組みが異なっていた。

中世の頃には長い時間の経過により、一つの土地に複数の権利保有者が存在し、複雑になっていたが、検地を行うことで、元々の権利を白紙に戻し、一元化するという効果があった。また、年貢を徴収される百姓にとっても、納入先が一か所になるという効率化のメリットがあった。実際の見地の詳細は史料が乏しく、不明のようだが、測量を伴った大規模な現地調査をすることはまれで、帳簿がある場合は、それに基づいて査定が行われたようだ。ただし、広大な隠田が疑われる場合は、このこの限りではない。

この銭による年貢の支払いは、農民にとっては相場の変動により収支が大きく影響を受けることになった。そして、16世紀末の銭の輸入量の不足により、銭での支払いによりトラブルが発生していたようである。そして、秀吉の時代を経て、年貢は米での物納という事が定着し、このことが明治まで維持されることになった。