隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

「関ヶ原」の決算書

山本博文先生の「関ヶ原」の決算書を読んだ。山本先生の多分最後の本だと思う。

本書は決算書と書かれているが、決算書というのはちょっと微妙な表現だと思う。というのも、歴史的な史料として、各大名がどれぐらいの資金を関ヶ原の合戦に費やしたかは存在しないのだから、何をもって決算というのかという問題が発生する。なので、軍資金という観点では、大名の規模から出兵した戦闘員・非戦闘員を見積、兵糧がどれぐらい必要だったかをはじき出している。それから、関ヶ原の前と後で、各大名の石高がどれくらい増えたかという事を計算してる。石高に関しては参照すべき値が割とはっきりしているので、計算しやすいのだろう。更に本書では、西軍側に付きながら領地を失わなかった島津家に関して、どうしてそのようになったのかがかなり詳しく書かれている。

戦国大名の経済学 - 隠居日録でも書かれていたが、軍勢の人数に関しても本書で触れられていて、中世の軍記物で「五十騎」などと書かれている場合は騎馬武者の数であるが、秀吉の陣立書に書かれている軍勢の数は「三万人」というように書かれていて、これは兵糧を手配するために総人数が書かれているという事だ。

象徴的な3つの始末

本書を読んでいて象徴的出来だと思った3家の関ヶ原後の始末は以下の通りだ。

毛利家

家康は9月17日に黒田長政福島正則の両人に輝元に対して書状を書かせ、「内府公も輝元には少しも含むところはないという事ですので、御忠節においては、いよいよこれから相談してゆこうという事を、我々より申し入れよ、とのことです」と告げさせた。具体的には、輝元が大坂城を退去することを意味し、その条件として毛利家の領国は相違なく安堵するというものだった。そして、輝元は9月22日に福島・黒田両名に対して起請文を提出し、大坂城西の丸からの退去を誓約した。しかし、結果として、毛利家の領国は周防・長門の2か国になってしまった。

長曾我部家

無傷で戦場から離脱した長曾我部盛親は9月末に領地の土佐に帰り、徹底抗戦の姿勢を見せた。しかし、勝ち目がないことは明らかで、盛親は家臣を死なすことは忍びず、11月12日に大坂に登って降伏を申し出た。この結果、命は助けられたが、領地は没収された。

島津家

島津家の始末がつくまでには長い時間がかかっている。9月28日付の肥前唐津寺沢広高と徳川家家臣山口直友の書状が届き、弁明するように伝え、「秀頼様への忠節のために大坂の奉行衆に味方したが、内府様には腹に一物もありません」という内容を送った。10月10日付の井伊直政からの書状があり、「出仕して事情を弁明するべき」とあった。この症状に返答がないので、直政は11月13日付で同様の内容の書状を送っている。が、この書状にも返答がなかった。10月27日付けで立花宗茂が島津に降伏を勧告した。

12月29日に上方で捕虜となっていた薩摩の家臣の本田助丞が日向のあやの到着し、この時他にも多くの捕虜が送還されている。本田は12月13日付の山口の書状を携えており、「早く上洛して、内府へ御礼を仰せられれば、前々からの昵懇の関係があるので、すんなりと相すむ」という内容が書かれていた。この時の徳川側の意向では義久が上洛することであった。

しかし、薩摩側としては領地が安堵されるという確約がないまま大坂城に出頭するのは危険であるという認識があった。長曾我部は恭順の意を示して大坂城に出頭しているのに、拝謁さえ許されず、領地を没収されているからだ。

慶長6(1601)年4月4日、徳川家臣山口直友の与力和久甚兵衛と捕虜になっていた島津家家臣新納旅庵が講和の使者として薩摩に下向し、義弘に拝謁した。旅庵は家康の書状と本多正信と山口直友が連署した起請文を携えてきた。義弘は謹慎の意を表すために、桜島に退いた。その後8月24日に本多正信と山口友直が義久と忠恒の神明と領国安堵を保証する起請文を出しているが、島津は動かなかった。

慶長7(1602)年5月友直から「家康様が8月2日に関東を下向するので、義久は6月20日以前に船出せよ」という強い要請があった。この時の書状は和久甚兵衛が持参し、新納旅庵も同行していた。この時には家康も義久宛ての起請文を書いたようで(ただし、原本・写本とも残っていない)、その内容も領地は安堵し、義久の身柄も保証するというものであった。この時島津家では、疑心暗鬼の義久と、講和やむなしとする義弘の間で当主の忠恒板挟みになっていた。最終的には忠恒は9月13日日向から出船して上洛し、12月28日に伏見城で家康に謁見し、島津家の関ヶ原は終了した。

この3つの結果を見ると、早々に降伏して、大坂に上り、恭順を示した方が領地を取り上げられるという、過酷な始末になっている。

関ヶ原の戦いは結果として徳川家康側東軍が勝ち、負けた際軍側の所領を没収・減封したわけだが、この時うまいことをやって、豊臣の蔵入地を没収してしまったのだ。豊臣の蔵入地が全国に遍くあったことには考えていなかったので驚きで、土地は全国に222万石もあった。それだけではなく、主な鉱山も豊臣家の蔵入地になっていた。1年あたり金山からはおよそ119億円、銀山からは278億円が豊臣家の収入となっていた。これらを徳川家康が差配してしまったのだ。