隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

多数決を疑う――社会的選択理論とは何か

坂井豊貴氏の多数決を疑うを読んだ。子供のころから何かを決めるときには、最終的には選択肢の中から選んで投票し、多数を獲得したものを選ぶという事を何回も行ってきて、その正当性には別に疑問には思っていなかった。まれに、全会一致とか、3分の2以上のという事もあるが、だいたいは多数決だ。しかし、最近になって、果たして多数決という決め方というのはいいのだろうかとようやく疑問に思うことが多くなった。とくに、選択肢が2つしかなく、鋭く意見が対立し、どちらも同数程度の賛同がある場合、仮に一票でも投票が多いからといって、多数の方を選んでしまうと、回復不能と思われるような分断が生み出されることを見て、この決め方はおかしいという確信に至るようになった。もう一つの面は、どうしても少数意見を救い上げることができない点だ。これも選択肢が少なく、特に2つしかない場合は顕著だろう。

そもそも、多数決というような意見集約・意志集約の研究はフランス革命前の王立アカデミーで行われており、その研究にはボルダとコンドルセという2人が大きくかかわっていた。

ボルダ・ルール

今3人の候補者X、Y、Zから一人選ぶ選挙において21人が投票したとする。Xに8人、Yに7人、Zに6人とすると、多数を獲得したXが選ばれる。これは普通の多数決だ。しかし、今選挙において2番目、3番目も合わせと投票したとして、以下のような結果だった場合、はたしてXを選択するのは正しいのだろうか。

1位XXYZ
2位YZZY
3位ZYXX
 4人4人7人6人
Xは(XYZ)が4人、(XZY)が4人で1位となり8票獲得しているが、13人がXを最下位にしていて、票がYとZで割れたから、Xが勝ったという側面がありそうだ。今、XYのペア、あるいはXZのペアで考えると、8対13でXは負けるのだ。このようにペア毎の多数決で他のあらゆる選択肢に負けてしまう選択肢のことをペア敗者という。ボルダのルールは、このようなペア敗者を選ばないような方法で、1位の候補に3点、2位の候補に2点、3位の候補に1点の点数を与え、その総和で全体の順位を決める方法だ。この例の場合はXは37、Yは45、Zは44となり、Yが選ばれる。ボルダ・ルールのような、順位に得点を与えて、得点の総和で選択肢を順位付けする方法をスコアリングルールと呼ばれている。

コンドルセの批判

コンドルセは1785年「多数決による決定の蓋然性への解析の応用」を刊行して、ボルダ・ルール及びスコアリングルール全てを批判した。
今投票により以下の結果が得られたとする。

1位XZYY
2位YXXZ
3位ZYZX
 3人2人2人2人
この場合ボルダ・ルールではXは19点、Yは20点、Zは15点となり、Yが選ばれる。しかし、ペア毎に多数決をとると、XはYやZに勝っているので、Xが選ばれるべきだと論じた。Xはペア勝者(他のどの選択肢に対してもペア毎の多数決で勝者になっている)からだ。コンドルセの具体的な計算方法には本書では触れられていなく、最尤法でとだけが書かれているので、詳細は不明だ。

ボルダもコンドルセも多数決を行うと票の割れが起きてしまい、多数側の判断が尊重されないという点では一致している。本書では選択肢が2つなら票が割れないと書かれているが、だが、どちらも甲乙つけがたい場合はやはり良い方法ではないのではないだろうか?

社会契約と投票の研究

ボルダやコンドルセの投票に関する考察・研究はルソーの社会契約論に端を発している。ルソーは人間が奴隷にならず、自由でいられる社会を築くための手段として、お互いを対等の立場で受け入れ合う社会契約を構想した。ルソーの構想では、人々は一つの分割不可能な共同体へと結合し、彼らは全ての権利を共同体に渡して一つに束ねられる。各人が契約する相手は「自分たち自身」を含む共同体であり、この共同体を人民と呼ぶ。また、束ねた権利のことを主権と呼ぶ。人民に主権が属するので人民主権と呼ばれる。

人民は一般意志のもとに置かれるとされる。一般意志とは、個々の人間の特殊性をいったん離れて意志を一般化したものだ。つまり、自己の利益の追求に何が必要かという事をいったん脇に置いて、自分を含む多様な人間がともに必要とするものは何かを探ろうとすることだ。社会契約をなすためには、自分のみならず他者をも尊重するという節度の心理が必要であり、「自分だけを優遇しろ」という節度なき自己心が暴れると、契約には至れない。

主権の役割は、一般意志に基づき、共同体内での規則、法を定めることであり、それは立法権を意味している。ある法案が一般意志に適うか否かを調べるためには、構成員全員が参加する集会で、各自が辿り着いた判断を投票で表明し、多数決で判定する。自分の判断と多数決の結果が異なっていたとしたら、それは自分の判断が間違っていただけで、自分の意に沿わない結果が出たという事ではない。だから、そのようにして定められた法に従うという事は、一般意志の判断に従うという事なのだ。以上がルソーが展開した少数派が多数派に従う正当性の根拠である。この結果からさらに言えるのは、人々の利害対立が鋭く、意志が一般化できないとき(自由や権利の侵害に関する事柄のようなもの、具体的には少数民族の排除、性的少数者の抑圧など)は、そもそも投票の対象にはなりえないという事だ。

この説明はかなり驚きだった。我々日本人はこのように議論して決めてきたのだろうか?何が共同体にとって大切なのかという事を念頭に、投票してきたのだろうか?我々はどこかで根本的に間違ってきたような気がする。