隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

日本神判史

清水克行氏の日本神判史を読んだ。有罪であるか無罪であるかを神に問い判決を下すのが神判であり、かってこの日本でもそのような事が行われていた。日本書紀にも竹内宿禰が「深湯」を行ったという記録があり、これ以外にも日本書紀に2件あるという。「深湯」とは、小石を熱湯の中に置き、争っている者たちにこれを拾わせ、手が爛れていたり、火傷している者に過失があるという判定方法だ。普通に考えて、熱湯に手を入れて火傷や爛れを起こさないというのは考え難いのだが、そのような方法で決着をつけたらしい。本書では、主に、鎌倉期の参籠さんろう起請、室町期の湯起請、戦国から江戸初期の鉄火起請について書かれている。

参籠起請

鎌倉幕府は、裁判で有罪か無罪か判断しかねる案件や、双方の主張が真っ向から対立し、どちらが真実か判断できない場合、当事者の主張に嘘偽りがないと宣する起請文を書かせ、一定期間(七日程度)神社の社殿に参籠させ、その間に彼らの身体や家族に異変(失)が起きるかどうかを監視した。起請文を書いて真実であると宣しているのだから、それが嘘であるならば、神罰・仏罰が下るだろう云う発想である。何をもって失と判断するかは、鎌倉幕府は明確にしており、

  1. 鼻血
  2. 鵄・烏の尿がかかること
  3. 鼠に衣装をかじられること
  4. 下血
  5. 身内の不幸
  6. 父子の犯罪
  7. 飲食の時に咽ぶ
  8. 乗用の馬の死

がそれに該当するという。ただ、実際この参籠期間に失が現れる確率は低いと思われるので、どちらかというと被疑者の汚名を晴らすことが主目的ではないかと書かれている。本書に数件参籠起請のエピソードが収録されているが、実際どれぐらい参籠起請が行われていたかの具体的な数字はない。

湯起請

湯起請は室町時代の15世紀に集中している。室町時代というのはなんとなく室町幕府があった時代だと思っていたのだが、本書によると義満が実権を握る契機となった康暦の政変(1379年)から10代将軍義材が細川政元に将軍職を追われた明応の政変(1493年)の頃までを指すのだという。確かに室町幕府の最初の頃は南北朝時代であり、室町幕府が絶対的な権力をもっていなかったし、終わりの頃は戦国時代で幕府や将軍の権威も失墜していた。この湯起請を特に好んだのが四代将軍の義教で、著者が収集した87件の湯起請のうち、義教がかかわっているのは30件近くある。

湯起請は神慮を聞くための手段であり、神社の境内などで行われることが多かった。実施に当たっては神子みこ陰陽師などの宗教者が主催する例が多かった。実施者は湯起請においても誓文で正義を誓った後に、煮えたぎった釜の中にある小石を拾い上げ、その際の火傷(失)の具合によって真偽を判断していた。本書によると、犯人捜しの湯起請で44人の挑戦者のうち、火傷がなく無罪となったものは22人、その場で火傷が確認され有罪となったもの18人、その後の3日程度の監視期間中に失が確認され、有罪になったものが4人となっている。煮えたぎった釜に手を入れて、火傷をしないというのはちょっと考え難い。本当なのだろうかと思ってしまう。著者によると、検査に立ち会う人の心証によって左右される部分も多分にあったのではないかという事だ。

著者の分析によると、神慮を得るという行為は純粋な信仰心からというよりも、犯罪者が共同体内にいないことや、あるいは共同体から有害なものが除去されることを望んでいて、狭い生活空間の中で人間関係が相互不信によって崩壊していくこと人々が恐れていたのだという。だから、誰の目にも明らかな形で白黒をつけることができる湯起請に期待していた部分があるという事だ。

鉄火起請

室町時代に流行して湯起請は16世紀には姿を消し、16世紀中ごろからは鉄火起請が現れてくる。鉄火起請は火起請とも呼ばれ、焼けた鉄片(鉄斧や鉄棒など)を手のひらに載せ、それを棚の上まで運ぶ神判である。鉄棒の代わりに焼いた石を掴んだり、手のひらでさすったりしたこともあったようだ。著者の収集した鉄火起請の史料は45件あり、北は陸奥仙台(宮城県)から南は肥前大村(長崎県)までの範囲で行われていたようだ。鉄火起請では紛争解決型の事例が多く、8割をしてめている。山入り件とか村の境界の確定などが主なものであった。鉄火起請は湯起請よりも火傷をする可能性が極めて高く、むしろ火傷をしないという事のが考えにくい。そのためか、相手に与える心理的圧迫を考慮して、鉄火起請を持ち出した場合もあるようだ。また、戦国時代にはいざというときのためのスケープゴートとして、村で乞食や浪人を扶養しておくという習俗があったようで、そのような被扶養者が鉄火の取り手として選ばれたこともあったようだ。そうではない場合は、後々の補償とセットで取り手を決める場合もあったようである。また、紛争解決型の鉄火による神判の敗者は権利を失うばかりでなく、領主により処刑される例も多かったという。このような過激な鉄火起請も17世紀半ばには姿を消した。その頃には近世社会の枠組み化確立し、藩や幕府による公的な裁判によって解決されようになり、人々は神判は必要なくなったのだろう。