隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

荘園-墾田永年私財法から応仁の乱まで

伊藤俊一氏の荘園-墾田永年私財法から応仁の乱までを読んだ。

この本を読む前は、荘園の始まりが墾田永年私財法からというのは分かっていたが、ではいつまで続いたのかというのはよくわかっていなかった。室町時代はまだあったのだろうが、戦国時代にはもうなかったような気がするけれど、正確な最後のところは不明だった。本書によると荘園の終わりの始まりは応仁の乱だったようだ。以前院政とは何だったか - 隠居日録を読んで、荘園についてはなんとなくわかったつもりでいたが、荘園も始まったころと終わりの頃ではその在り方も成立のし方も変わっていることが本書でよくわかった。

摂関期の荘園

摂関期の国司は土地所有の認定についての権限を中央政府から移譲されていた。また、課税額を決める権限も委譲されていた。摂関期の荘園は税の減免を受けた私領(免田)が集まったもので、荘園領主が招き寄せた田堵らによって耕作され、荘園領主国司の両方に納税した。こうした荘園を免田型荘園と呼ぶ。

国司の裁量で認可された荘園を国免荘とも呼ばれた。国免荘は免田の集まりだが、東西南北の境界を表す四至で区切っていた開発予定地を付属させることが多かった。開発した新田は国衙の課税対象になり、税の減免が受けられるとは限らなかった。国司の四年の任期が切れて交代すると、前任の国司が行った決定は無効となった。四年の任期が終わりに近づくと国司は賄賂をとり、免田や荘園の認可を乱発し、それを新任の国司が廃止するというサイクルが繰り返された。

朝廷は土地所有や課税についての許認可を国司に委譲したが、全てを手放したわけではなく、特別な場合特定の荘園について、所有権と税の減免を決定した。この措置を受けた荘園を官省符荘という。官省符荘での税の減免は指定された免田のみで、四至のうちに開かれた新田は課税の対象になったが、特別な場合検田の免除も命じることができ、この特権を不入りの権と呼んだ。

院政期の荘園

白河上皇は寛治四(1090)年、賀茂別雷神社賀茂御祖神社の両社に不輸租田600町余りを寄進したのをはじめとして、自分が建立した御願寺の所領として、新たに荘園を設立していった。そこには摂関期にはない特徴があった。摂関期の荘園は免田の集まりと東西南北の境界を示す四至で区切った開発予定地からなっていて、開発予定地に新田を拓けば私有権は認められても、公領並みに課税された。これを避けるには、太政官から不入の権認可を受けることで、国衙の検田使の立会いを拒否しなければならなかったが、この認可は簡単には下りなかった。しかし、白河上皇の荘園は院庁の命令で設立され、最初から不輸・不入りが認められていた。このような荘園を領域型荘園と呼んでいる。摂関家上皇天皇に入内した娘の権限を利用して、領域型荘園を設立していった。

白河上皇は亡くなった后妃や皇女の菩提を弔うために寺院を建立し、その「経費を賄う」ため膨大な領域型荘園を設定していったことが本書で説明されているが、「経費を賄う」といっても荘園からの年貢が100%経費を賄うために使われたかどうかは本書には明確に記されていないし、100%は使っていないだろうと思う。

本書には「在地領主への恩恵」という項目で、ちょっと驚くような内容が書かれている。

たとえば御願寺の経費に充てるため二百町の荘園が必要と分かると、まず院近臣が伝手をだとって在地領主の持つ二十町歩の免田の権利書を集め、後の百八十町は附属する四至として処理した。

後半の部分も驚くが、もっと驚くのは前半の部分だ。最初に荘園の候補の免田があって、それを荘園にするのではなく、荘園が必要だから免田を探してくるというのだ。しかも、免田の周りにたっぷり開発予定の土地をつけて、広大な領域の荘園を作り上げている。これを開発領主の方から見ると、二十町の支配地が二百町の支配地に化けるわけで、まさにwin-winの関係だ。免田を寄進した在地領主は現地の管理を任される下司などの荘官に任じられた。寄進を取り次いだ院近臣、女房や家司は領家と呼ばれ、京都に住みながら荘園を実質的に支配した。その領家の上に立ち、その荘園所識の所有権・免罪特権を保証したのが天皇家摂関家で、本家と呼ばれた。

もういちど読む 山川 日本史史料 - 隠居日録に荘園が増えたのは院政期だという事が書かれていたが、これでその理由がよくわかった。

頼朝の挙兵

頼朝は平維盛を下した富士川の戦いでの勝利後鎌倉に戻ることに決めたが、帰路の途中相模の国府で論功行賞を行い、敵方に味方した武士の所識(具体的には在地領主が所持していた下司職、公領の郡司職・郷司職)を没収し、味方に与えたのだ。この時点で頼朝は反乱軍であり、これは超法規的な行いだった。この後頼朝は朝廷と接触し、後白河上皇を撃つための反乱の意思がないことを伝え、東国も西国も朝廷から国司を任命してほしいと申し入れた。この申し出を受け、朝廷は「永寿二年の十月宣旨」を出し、東海道東山道の荘園・公領を領家・国司に従わせ、元の通り年貢を納めさせることとし、この命に背くものは頼朝に連絡して、処置させるように命じた。これにより、頼朝の行った論功行賞は不問にされ、頼朝に不満分子に対する強制力の行使を委ねた。

元暦元(1184)年二月一の谷の戦いで源義経の奇襲により平家軍は潰走し、この恩賞として後白河上皇は平家没官領500か所すべてを頼朝に給与し、頼朝は領家識を含む巨大な荘園領主となった。この所領は鎌倉幕府の直轄領である関東御領となる。また、頼朝の知行として、三河駿河・武蔵の三か国が与えられ、後に九か国に増えた。これらの知行国関東御分国と呼ばれる。