隠居日録

隠居日録

2016年(世にいう平成28年)、発作的に会社を辞め、隠居生活に入る。日々を読書と散歩に費やす

刀伊の入寇-平安時代、最大の対外危機

関幸彦氏の刀伊の入寇-平安時代、最大の対外危機を読んだ。

平安時代に対外勢力からの侵略があったという事、そしてそれが「刀伊の入寇」と呼ばれていたという事は知っていたのだが、具体的な内容はよく知らなかった。更に、何かの小説で、事件があったのは時代は藤原道長の頃で、京都の方に向かって侵入してきていた(これは記憶違いか、小説での物語展開で、史実ではないようだ)いうようなことを読んだ記憶があった。これが日本が最初に被った侵略戦争だというように思っていたのだが、本書を読んで、それ以前にも対外勢力による侵略があったことが分かった。

刀伊の入冦以前の侵略

刀伊以前の侵略としては、貞観十一(869)年5月「新羅海賊が二艦で博多に来寇」という記事が三大実録にあり、豊前で略奪をした。以降、海賊問題は断続的に史料に登場する。新羅海賊は山陰や九州方面にたびたび侵冦するようになり、西国防衛をどうするかが一つの課題となった。この時動員されたのが、出羽国での蝦夷戦争後に朝廷に帰順した蝦夷だった。彼らは俘囚と呼ばれ、関東・瀬戸内・九州方面に移住させられた。狩猟を生業にしていた彼らは、乗馬や騎射に巧みだったことがその理由のようだ。

唐を宗主国としていた新羅は九世紀前半には支配体制の動揺があり、反乱が続出していた。九世紀後半には後百済・高麗などの勢力が分立し、国内は混乱した。新羅の海賊は国内の政情不安定が引き金だったようだ。十世紀初めには唐が滅亡、935年新羅も敬順王が高麗の王建に下って滅亡した。

刀伊とは

刀伊とは高麗人により呼称された名前のようで、彼らはツングース系の女真族でり、半農・半牧を営み、主に中国東北部の東部松花江中流域行に居住した。契丹建国後、女真族はその支配下にあったが、彼らの活動領域は朝鮮半島の北部・沿岸部まで及び、高麗にも居住していた。11世紀に日本に侵攻した勢力は朝鮮半島東沿岸に居住する東女真とされている。高麗も南下する東女真に対する海防には悩まされていた。

事件あらまし

寛仁三(1019)年三月二十八日、刀伊の兵船50余艘が対馬に現れ、殺人・放火を行った。同日壱岐も攻撃された。この突発的な襲撃は即日対馬から通報され、四月七日には大宰府に伝えられた。刀伊の船は七日には筑前の沿岸に現れ、怡土・志摩・早良の三郡に侵攻した。この時の刀伊の船は長さが15から20メートル、楫が30から40ほど取り付けられ、20人から50人程度乗船していた。彼らは刃を振り回し、弓を持ち、盾を保持していた。牛馬を殺して食べたり、老人子供を殺したり、無抵抗の男女400~500人程度攫った。四月八日に那賀郡の能古島に来着し、これに対応するために、大蔵種材、藤原明範、平為賢、平為忠、藤原助高、大蔵光弘、藤原友近らが博多警固所に派遣した。九日再び刀伊は来襲して警固所を攻めたため、矢戦になり、警固所側は賊徒十四人を打ち取った。大宰府側は十一日未明早良郡から志摩郡に精鋭部隊を派遣した。

十二日賊徒が上陸して激戦が起き、賊徒30~40人を矢で射すくめ、二人を生け捕りにした。その後賊徒は肥前国松浦郡に出没し、沿岸の村々を攻撃した。これに対応するため源知らが郡内の兵士を率いて戦い、数十人を弓矢で倒し、捕虜一人を得た。このため、刀伊の賊船は侵攻ままならず、退却した。戦闘後、捕虜を尋問したころ、いずれも高麗の人で、刀伊軍に捕虜にされた人々だった。

刀伊の侵攻の件が京都に伝わったのは四月十七日のことで、目立った動きとしては神仏に祈願したぐらいのようだ。日本から退却した刀伊軍は、五月中旬朝鮮半島の元山沖で、高麗水軍に壊滅させられた。九月二十二日に高麗側の慮人送使の鄭子良が被慮者270人を伴い対馬に来着した。

西国の守りを固めるために大宰府が設置され、防人が警備に当たったというのは昔学校で習った記憶がある。一方、大宰府は左遷先としても有名なところで、重要なのか重要ではないのか何かよくわからない状況だった。刀伊の入寇時の太宰権帥(大宰府の次官で、実質上の長官)は藤原隆家で、道長との政争に敗れての左遷という側面もあるだろう。当時隆家は36歳で、眼病を患っており、宋人の名医の診察を受ける目的があったらしい。元寇以前にも朝鮮半島を下っての襲撃がたびたびあったのならば、西国の守りとしての大宰府も意味があったのだろうと思う。